フェンスに揺れるスカート

深森花苑のブログです。

「アバラスド旅行記」のプロットの変遷を振り返る

「アバラスド旅行記」は私が小説家をめざす普通の女の子でいた最後期の作品。たしか、初稿を書き上げたのは24才ぐらいの頃だったと思う。

それから10年以上の時を経て、プロットは右に左に変遷してきた。その経緯とともに、いまはどこをめざす作品になっているのかまとめておこうと思う。

 

初稿時の「アバラスド旅行記」は、束縛の強い毒親から逃れ、自由に旅するなかで、未知のものに出会い、自分の世界を広げていく……というものだった。主人公が女性、親が毒親、旅する世界で見るものが普段見ているはずのものなのにちょっと異世界のものに見える……という点以外はいたって普通の旅物語だった。

 

「逃げる気かい?」

「違うわ、追いかけるの」

 

初稿にはこんな台詞が出てくるところがある。

主人公は「追いかける」とはいうものの、孤独を好み、人との深い人間関係からは「逃げて」いるように見えた。もしも、旅に「仲間」ができたら? 束縛でない、本当の愛情に触れることができたら? 主人公は旅をやめるのだろうか? そんな疑問から「アバラスド旅行記」を三部構成に書きかえる構想が生まれた。

 

ちなみに、このときの結論はたしか「仲間といったん恋人になるも別れ、また一人で旅することを選択する」だった気がする。

旅仲間から受ける愛は突然届けられた差出人不明の熱烈なラブレターというかたちで表現され、これは現在書いている版の青翅舎の設定に引き継がれている。年齢=彼氏いない歴だった(……正確にいうとそうでない2週間ぐらいの期間があるが、黒歴史なのでなきものにする)当時の私の想像力の限界を感じる。

そして「アバラスド旅行記拾遺」の梔子鈴也にあたる、主人公の相手役をつとめる男性はノリがよくて明るい人物に設定された。この頃は、ただそれだけの人だった。

 

三部構成版「アバラスド旅行記」の設定が固まりきる前に、価値観が一変する出来事が起き、思考は歪んだ。

この物語もその「歪み」の影響を受けることになる。

と、同時に物語を思いつきで組み立てることを脱却し、論理的にプロットを組むことを覚え始めた。そして、物語にはめざす場所がないとうまく回らないことを痛感し、なにがおもしろいのかわからないままプロットをごねくり回す日々が続いた。

その結果、物語はこんなふうに変わった。

 

廃屋に潜り込んだ少女はそこで分厚い手書きの旅行記を見つける。

現実とも虚構とも思える不思議な見聞録だった。

旅をしているのは20代ぐらいの女性のようだ。母親から強い束縛を受け、旅に出る決意をしている。

女性は旅の途中で母親に遭遇し「いつ帰ってきてもいい」と家の鍵を渡されそうになる。しかし、女性はそれを拒否する。

そして、やがて女性は男性の旅人と行動をともにするようになる。なぜか理由はわからないが、男性はこの女性のことが好きらしい。男性に心を開いた女性の旅人は二人でいる幸せを知ると同時に不自由さも感じるようになる。

ある日、男性は旅を辞めて、二人で暮らそうと女性に持ちかける。君を守るためにはそれが一番なんだ。しかし、女性は男性の申し出に恐怖を感じる。男性とのやり取りのなかで、女性は本当の愛があれば二人で暮らすことは束縛ではなく、恐れる必要のないことを知る。

しかし、そのとき、過去に受け取るのを拒否したはずの家の鍵がぼろぼろになって道端に落ちているのを見てしまう。もしも、愛さえあれば家庭を築いても束縛など生まれないというのなら、まず真っ先に向き合うべきは家でひとり私の帰りを待つ母親ではないか。

女性は男性と別れ、ひとり家に向かう。しかし、家に母親の姿はなく、ぼろぼろの空き家があるだけだった。

旅行記はここで途切れる。

廃屋で旅行記を読んでいた少女は背後に気配を感じて振り返る。すると、そこに年老いた老婆がいた。おそらく、旅行記を書いた主だろう。老婆は母親の帰りをここでずっと待っていたようだ。少女が話しかけようとすると、老婆は消えていく。

 

梔子鈴也の名前は、普段軽口を叩いていてうるさいぐらいなのに、最後の別れのシーンでなにも言う権利が与えられないキャラクターであるためこうつけられた。

 

この段階で、疑問がいくつかわいてきた。

なぜ梔子は主人公に恋心を抱いていたのか?

なぜ梔子は主人公を守ることに固執していたのか?

そもそも梔子はどんな人間なのか?

話の大筋はできても、主人公と梔子のやりとりがめっぽう思い描けず、設定を固めるために梔子の少年時代を描く「アバラスド旅行記拾遺」を書き始めた。

そのなかで梔子は、逆算的に、守りたい人(特に女性)を守れなかった人、帰りたくても帰る場所のなかった人、などの設定が生まれた。

また、一人で無鉄砲に村を飛び出していることから、梔子は周りの空気を読まない人だろうと推測した。そこで、自分の周りにいたそういう人の特徴をいくつか組み込んだ。そのなかには小学生時代の私も含まれている。梔子の勝ちへのこだわりは私がモデルだ。

 

梔子の設定が固まってくると同時に、はたして今の「アバラスド旅行記」の結末で、誰が満足するのか、疑問に思い始めた。あまりに希望がなさすぎる。親と主人公は無理でも、せめて梔子と主人公が再会しないと二人の人生を全否定することにならないか。

そこで、廃屋にいた少女は実は主人公の本心であり、廃屋で失意のまま何十年も無為に過ごしていた主人公を立ち上がらせるために現れた、という設定が生まれた。

一応、梔子と主人公は再会できるが、二人とも既にかなり年老いている。

 

こうしてできたのが今の「アバラスド旅行記」のプロットである。

 

この物語でもっとも貧乏くじを引かされているのは、言うまでもなく梔子だ。主人公の気持ちもわからないことはないが、それを実現させるために梔子の失うものが多すぎる。そもそも、拾遺の段階であんなにつらい思いばっかりしてるのに、これ以上苦しませる必要なんてあるんだろうか? ……少なくとも、今の私はそう思う。もう少し、いい展開はないだろうか。

 

幸い、物語がうまく回ってない、と感じたときの修正方法はいろいろある。シチュエーションを変えたり、順序を変えたり、シーンを追加したり。

今回は「一人足す」がいいような気がした。そういえば、主人公と梔子が行動を共にするきっかけとして、存在しない村まで猫を送り届けることを頼まれる、というエピソードを考えたことがあった。あれがもしも人だったら……。

 

例えば、こんな感じ。

二人は、貰い先を見つけてほしい、と一人の少女を託される。家族を失った喪服姿の赤髪の少女だ。それで、二人はしぶしぶ行動をともにするようになるが、どうやらその女の子は二人以外には見えていないらしい。

女の子の姿が見える貰い先がみつかると、二人はそれぞれの旅路に戻っていく。

そんなストーリーでも主人公が人と旅する過程で得なければならないことはみつかるはずだし、得たかった自由も得られるはずだ。

 

このほうが、なんだかおもしろくなりそうだし、ちゃんとしたハッピーエンドを書ける気がするんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京ゲームショー2018レポート(海外ゲーム)

企業からインディーズ、学校などゲームにまつわるあらゆるものが集まる東京ゲームショー。そのなかで、なにを見るかも迷うところですが「この機会じゃないと会うのが難しいだろう」と、海外ゲームのブースを中心に巡ってきました。

 

■luna(hall 10 W31 FUNOMENA)

今回、自分が遊んだなかではこれが一番楽しかったです。

VRのパズルゲームのような感じなのですが、とにかくグラフィックが美しいです。

 

Luna - VR Launch Trailer - YouTube

 

宇宙空間のようなところから始まるんですが背景のはずの星空眺めてるだけでも満足できます。会社帰ってから数十分これ起動してぼーっとしてたい……。プラネタリウムいらないわ。

 

動画だと、よくあるローポリゴンのゲームっぽく見えるかもしれません。が、なにかが違う……。理由を考えた結果、このゲームは奥行きの感じ方がほかのゲームと違うという結論にいたりました。手を動かした分の距離がゲームのなかに存在していることがわかるというか。

VRゲームいくつか今までやってきましたが、これほどその場に「いる」感覚がしたゲームは初めてでした。

小さい頃に入ってみたかった絵本の世界に入ってしまえるよう。

 

うーん、違いは本当に奥行き、なのか。ほかのVRとなにが違うのか、わかる方に詳しく解説してほしい……。

 

PC版はすでに配信中で、今秋にPSでも遊べるようになるとのこと。

 

 

■陽春白雪ーLyricaー(hall 9 B32 RNOVO Studio)

4Gamerさんのこちらの記事を読んで興味を持ち、遊んできました。

[TGS 2018]えっ,漢詩×音楽ゲームって? 台湾発のスマホアプリ「陽春白雪 -Lyrica-」をプレイしてみた - 4Gamer.net

 

漢詩×音楽ゲームという異色の組み合わせ。中国語がまったくわからないのでゲーム中に出てくる漢詩が音楽の歌詞なのかどうかすらわからない……。

ただ、文学がこういう形でゲームに絡んでくるのはおもしろいな、と思いました。中国語の勉強にもなりそう。

 

2018年配信予定だそうです。

 

 

■Harold HALIBUT(hall 7 C07 Slow Bros.)

ドイツパビリオンにいた案内役のお兄さんに教えてもらった制作過程がすさまじかったゲーム。

モデリングだ、VRoidだ、といっているこの時代に、すべてハンドメイドで模型を作り、3Dスキャンしてゲームに使用しているそうです。ブースにも使用した人形が展示されてました。……労力を考えただけで卒倒しそう。(実際、リリースまでに7年かかったらしいです)

 

現場では、お兄さんに「質感が生々しいでしょ!?」と聞かれても、違いのわからない女なので曖昧な返事しかできませんでした。でも、こちらのトレーラー映像見ると、たしかにポリゴンでは出ない質感になってますね。

 

Harold Halibut - Game Trailer - YouTube

 

 

 

 

以上、東京ゲームショーの気になった海外ゲームレポートでした。

アニメ『プラネット・ウィズ』10話時点での今後の展開予想のようなもの。

このエントリーは、コメントから読むのが一番いいと思います。

なにが起きたかというと、10話が最終話だと勘違いして「ハッピーエンドっぽく終わってるけど、そうじゃないんじゃないか」という考察書いちゃったんですね。

すっとこどっこいにも程がありますね。

 

というわけで、以下の記事は10話終了時点での今後の展開予想のようなもの、としてお読みいただければ幸いです。

 

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うがった見方であると信じたい。でも、こういう解釈もできるのでは、と思ったので書いておく。なお、ネタバレ不可避なので、最終回まで見てから読まれることをお勧めする。

 

 

 

 

私がこの考えを持つきっかけとなったのは「結局『竜』との戦いってなんだったの?」という疑問からだ。あれだけ作中で竜が、竜が、と言っておきながら、肝心の竜との戦いは一切描かずに封印派と穏健派の戦いで終わったのはなぜなのだろう。作品として、それ一番やっちゃいけないことじゃないの? そこまで思ったとき、別の考えが頭をよぎった。

 

あえて『描かなかった』のではないか。

 

そのとき、このアニメのキャッチコピーが頭をもたげた。

 

『幸せだったことを俺は忘れない』

 

なぜ過去形なのか。

 

疑問はまだある。「楽園の民」って結局なんだったの?

しかし、これについては、最終回の最後のほうで答らしきものが示される。ラストの大人になった宗矢の姿は「楽園の民」そっくりだ。つまり、未来の宗矢が楽園の民だったということ。それなら、楽園の民が宗矢にしか見えなかったことの説明はつく。

 

これを手がかりに「竜」についてもう少し考えたい。

 

作中で竜と呼ばれたものはいくつかある。

1)宗矢の故郷を滅ぼした竜

2)暴走した晴海

3)竜造寺

4)4年後に月の裏から現れると予言された竜

このうち、2)と3)は宗矢が倒している。

 

しかし、銀子ははじめに宗矢を救ったとき、

「この子は竜さえも許せる存在にしてみせる」

というようなことを言っていたはずだ。それなのに、2)と3)の竜を宗矢が倒しても銀子がそのことについて苦悩するさまは一切見られなかった。

つまり、銀子が指す「竜」とは4)の竜――。これから来る竜のことを指しているのだとわかる。

 

ここで、3)の竜――竜造寺を倒した時、楽園の民が出現したことを思い出してほしい。なぜ、未来の宗矢はその光景を沈痛な面持ちで見つめなければならなかったのか。

そして、最後に宗矢が立ち上がるとき、楽園の民が宗矢に「君に竜を倒してほしい」と言ったのはなぜなのか。

 

それは、未来の宗矢が、竜に対して非常に複雑な感情を抱いているからでは?

つまり、未来の宗矢が竜を許せなくなるほどのなにかが起きたからなのでは?

 

作中で竜は「暴走する正義感」の象徴として描かれてきた。

もしも、宗矢が大切な人を竜によって喪ったとしたらーー。

宗矢は竜を許すことができるのだろうか。

宗矢自身が復讐の鬼と化し、竜になることはないのだろうか。

 

『幸せだったことを俺は忘れない』

 

このキャッチコピーは、大人になった宗矢が竜と対峙したときの言葉のように思えてならない。

 

以上、ひねくれ者によるアニメ『プラネット・ウィズ』最終回の考察でした。

藤子ファンでなくてもはまる!『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』を機械好きに勧めたい

先日、地上波で放送されていて、その録画をなんとな~く見ていた『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』。しかし、気がついたら前のめりになり、テレビにかじりつき、最後まで見てしまいました。この作品は、子供やドラえもん好きだけでなく、いろんな人に見てほしい!!と思い、私が感じたこの作品の魅力を極力ネタバレなしでまとめてみました。

 

どんな人にお勧め?

どんなに良い作品も万人がおもしろいと感じるわけではないので、特にどういう人にお勧めできるか、というところからしたいと思います。

まず、前提として筋書自体がおもしろいのでドラえもんのファンじゃなくても映画として充分楽しめるということは言っておきたいです。伏線の張り方やシチュエーションのディテールが子供騙しじゃなく、そういう意味でピクサーのアニメっぽさも感じました。

作品の内容としては、機械が好きな人、とりわけスチームパンクの世界観が好きな人エンジニア職の人に見てほしい内容でした。

で、公式が下のリンクなんですけど。

 

doraeiga.com

これだけ見ると、どこがスチームパンクなのかって思うでしょうけど、スチームパンクなんですよ

スチームパンクといえば、19世紀イギリスの雰囲気を連想される方が多いと思います。そして、その時代を舞台にした超有名作品といえば、シャーロック・ホームズ。国は違いますが、怪盗ルパン、ジュール・ヴェルヌの作品なんかもありますね。この辺りをモチーフにしたであろう登場人物がこの作品には複数出てきており、のび太も物語中でホームズの姿になります。

さらに、物語の舞台となるミュージアム飛空艇だったり、ミュージアムの展示物に天球儀をモチーフにしたものがあったり、ひみつ道具を作るのに使うのがフルメタルという謎の金属だったりします。ほらほら、スチームパンク好きには見慣れたものがたくさん出てきたでしょ? 主題歌もPerfumeですし「スチームパンク的な機械仕掛け感」は物語の重要な要素だったのだと思います。

私が地味に好きだったシーンに、ミュージアムの裏側の狭い道を通るシーンがあるんですが、その道の裏路地っぽさや配管のぐちゃぐちゃ具合もスチームパンクの精神を感じるんですよね……。時代設定が19世紀から22世紀になったというだけで。

 

そして、長編映画オリジナルキャラが「見習い道具職人(≒エンジニア)」という設定だからか、エンジニアあるあるネタが盛り込まれていて、それにも笑いました。一番笑ったのが、大事なプロジェクトで機械にコーヒーこぼしてプロジェクトが失敗に終わるという場面。……あるある。今はないと思うけど、デスクでコーヒー飲むの禁止って職場もあったもん……。ていうか22世紀になっても我々はこぼしたコーヒーに苦しめられるのですか……。いや、でも人間のする失敗なんて過去でも未来でもそんなものかもしれない。

 

魅力その1:ひみつ道具がインフラとして機能しているところが見られる

それでは、そろそろ作品の魅力を語っていきたいと思います。

まず、一つ目は「ひみつ道具がインフラとして機能しているところが見られる」ところでしょうか。すごく雑な言い方をすると、ドラえもんって未来で当たり前の道具に現代のわれわれが「すげー!」って驚いている話じゃないですか。異世界転生ものとかでよくあるパターンの逆バージョン。ただ、その「当たり前感」を醸し出してるのが未来から来たドラえもんセワシぐらいしかいないので、物語中でそのことを意識することはあまりなかったはずです。

ところが、この映画ではひみつ道具は誰でも使うもの」として描かれます。みんな抜け穴ボールペンでその辺移動していたり、ミュージアムのフロア移動にどこでもドアが使われているのには萌えました……。ドラえもんに詳しい人なら、画面中にさりげなく登場している道具を探す、という楽しみ方もできるでしょう。

ひみつ道具がふんだんに登場する一方で、タブレットのような現代と地続きっぽいアイテムも登場します。「いつかドラえもんひみつ道具が当たり前になる、こんな未来が来るのかも」と思わせてくれるのも夢を感じて良かったです。

ただし、これには落とし穴がありまして、ひみつ道具を誰でも使えるということは……。

 

魅力その2:敵も普通にひみつ道具使ってくる

……ということなんです。

ドラえもんを見たり読んだりしたことのある人なら、たぶん一度は思ったことがあるはずです。

ひみつ道具ってチートすぎるから、持ってる時点でドラえもん側の勝ちでしょ」

この作品では、それが通用しませんひみつ道具は「存在する」のが前提、つまり、ひみつ道具を持っているだけではだめで、その使い方がまずければ戦局は悪くなるのです。しずかちゃんはある道具を使ってカウンター攻撃する場面が一瞬映るんですが、頭脳プレーでさすがでした。あと作中で「きこりの泉」がとんでもない形で使われるんですよ……!

youtu.be

絵面が狂気じみててとても好きです。

ひみつ道具を持っているのが当たり前の世界では、単独で使うということはむしろ少なく、複数の道具の合わせ技になる……。技術進化の歴史もこんな道を歩んできたのでしょうか。ポンコツ×ポンコツポンコツ???」製作者のこんな問いかけも聞こえてきます。その時点では役に立つかどうかわからないものが使い方や場面次第で使えるものに変わる――これは、すべてのものづくりに携わる人へのメッセージだと思いました。

 

魅力その3:魔女宅、ラピュタアダムの創造……さまざまな作品へのオマージュ

最近ではどの作品でもオマージュを潜ませるのが当たり前になりすぎてる感がありますが、この作品ではあざとくない程度のオマージュが随所に見られました。そうそう、オマージュってこういう使い方をすべきだよね! 古き良きオマージュ。

特に魔女の宅急便ドラえもん「猫(型ロボット)が親友」という共通項があるわけですが、のび太が魔女宅のあの場面を彷彿とさせる台詞を吐いたときはこの後ドラえもんどうなっちゃうんだ!?とおおいに焦りました。みなさんもおおいに焦ってください。

あと『アダムの創造』と同じ構図のカットが出てくる場面があるんですが、あの絵の意味を考えると、いっそう胸に迫るものがありますね。ロボットに命を吹き込むことができるとしたら、それは何に依るのだろう。

 

魅力その4:描線がきれい

ディ○ニー作品の線の強弱・メリハリと言えば伝わるでしょうか。キャラクターを描く線が一定の太さではないんですよね。だから、とっても柔らかい印象になってます。

 

魅力その5:7等身のドラえもんが見られる

7等身ですよ。

頭でかすぎて実際には5等身ぐらいのような気もするけど。

 

いまひとつだったところ

いいところばっかりでもあれなので。

冒頭にも言ったとおり、この作品がめざしていたのは「未来のスチームパンク」だったと思うんですよね、たぶん。でも、絵を見ると全然スチームパンクじゃない。

私の推測ですが、スチームパンクを前面に出すとレトロ感も出てしまい、未来っぽく見えない、という理由で今のようなデザインになったのだと思います。でも、結果なにがテーマなのかよくわからなくなってしまった。さらに、それがキャッチコピーにも悪影響を与えてしまった気がします。ひみつ道具の「なぞ」とか、夢がかなうとか、物語の枝葉の部分だし、映画見るべき人を誘えるコピーでもなかったと思います。

飛空艇のビジュアルをメインに置いたら、ちゃんと未来感のあるスチームパンクになったと思うんだけどなぁ。

 

 

いろいろ言いましたが、本当に何度も見たくなるいい作品でした。

次は登場したひみつ道具全確認とかしてみたいです。

Web版『アバラスド旅行記』始めました。

お久しぶりです。深森花苑です。

新作の小説のお知らせです。

 

■Web版『アバラスド旅行記』

少女が忍び込んだ古い家でみつけた一冊の旅行記。

そこに記されていたのは、少女がまだ見たことのない世界で当たり前のように繰り返されてきた「不思議な」いとなみだった――。

 

『アバラスド旅行記』はおおまかに言うと、こんなお話なのですが、Web版では、少女がみつけた旅行記の部分だけを公開します。

ぜひ、少女と同じ目線で旅行記を読んでいただき、この旅行記の主がどんな人なのか思いを巡らせてもらえればと思います。

 

↓Web版『アバラスド旅行記』

http://abarasudo.hatenadiary.jp/

 

この小説はわたしたちの生きる世界ととてもよく似たロー・ファンタジー になっています。

「似ている」ということは違う部分もあるということです。

たとえば、暦。この世界では冬至が1月1日です。つまり、公開した昨晩が1月1日だったわけです。

そのほか、電気がつい最近まであまり使われておらず「黄土」とその上位互換エネルギーの「大黄土」がおもなエネルギーや光源として使われていました。

『アバラスド旅行記』の時代では新たに電磁波を利用したエネルギー「電磁」が登場し「大黄土」から移行が進みつつあります。「電磁」によって通信技術も飛躍的に伸び、部分的に私たちの住む世界よりもずっと進んでいるように見えるところもありそうです。

 

小説は、事実と混同されることを避けるため、認証をかけたブログでの限定公開にしました。キーワードさえ入力すればどなたでもお読みいただけますので、認証画面でびびらずにキーワード「青い翅が波上の蝶に届くとき」を入力してご入場くださいね。

(ちなみに、私がやってみた限り、一度キーワードを入力すれば数日間は認証なしで読むことができるみたいです)

 

Twitterで掲載していた『アバラスド旅行記拾遺』(『アバラスド旅行記』の外伝)では事実と誤認されたらまずそうな言葉を避けたり、140字以内に収めるために泣く泣く表現を削ったりしたのがとても不自由だったので、今回はこういうかたちをとりました。

カクヨム」や「小説家になろう」で公開することも考えたのですが、どうせWebでやるならリアルにジャーナルっぽくしたほうが楽しそうですし。

 

 

それでは、長い旅が始まりますが、一緒にその行く末を見届けていただければ幸いです。

 

深森花苑

 

北海道と東京ではカルピスの「普通」の作り方が違った話

子どもの頃、一番うれしかったお中元が「濃縮カルピス」だった。

カルピスを飲むときにはきまって特別なグラスが出された。苺がプリントされていたり海の風景が広がっていたり、柄はそのときどきで違ったけれど、食器棚の奥から必ずぴかぴかのグラスを引っ張り出して飲んでいた。

(きっと、これは友達が遊びに来ていたときに出されることが多かったからだ)

 

カルピスはそういう、夏の特別な飲み物だった。

 

特別感をさらに演出していたのが「濃縮カルピス」の存在である。カルピスの白い色とは似つかわしくないその茶色の瓶は親の買い物についていってもまずお目にかかれることはなかった。お中元でなければ出会えなかった代物である。さらに、そいつは原液のままでは飲むことができず、4~5倍に薄めなければ飲めないという。幼心に「麺つゆか」と思ったものである。粉タイプの濃縮飲料ならばレモネードや昔懐かしのミロがあったものの、液体タイプの濃縮飲料となると、当時カルピス以外では見たことがなかったと思う。水で割らなければ飲めないカルピスは夏の間だけ見る、特別な飲み物がだったのだ。

 

思い出話はこの辺にして、本題である。

この濃縮カルピス、どうやって割ってました?

北海道の人と話していたら、あまりに作り方が違っていたのにびっくりしてしまいました。

 

東京に住んでいた私の場合、

1.カルピス専用のボトル(1リットルぐらい入るもの)を用意します。

2.そこの下5分の1ぐらいに濃縮カルピスを入れます。

3.水をボトルいっぱいぐらいまで入れます。

4.冷蔵庫で冷やします。

5.グラスに注ぎます。

6.おいしい♡

でした。

 

これが北海道に住んでいた人の場合、

1.グラスを用意します。

2.下6分の1ぐらいに濃縮カルピスを入れます。

3.水道水を入れます。

4.おいしい♡

らしいのです。

 

なんで北海道ではカルピスの作り置きしないのか、しばらく話して気が付いたのは「北海道の水道水は夏でも冷たいから冷蔵庫で作り置きしなくてもすぐ冷たいカルピスが作れる」ということでした。

 

……こんな小さなことでも場所によってさまざま変わるもんなんですね。

 

持続可能な郷土芸能をめざして~王子田楽ドキュメンタリー~

本題に入る前に、私の立ち位置を明確にしておこうと思います。

私が民俗学に興味を持ち始めたのはちょうど5年半ぐらい前。東日本大震災よりは前だったと思います。地方で消えかけている伝統文化におもしろいものが多いことに気づき、もっと多くの人にこれを知ってもらおうと活動を始めました。以来、いくつかのご縁でご当地系の記事も書くようになりました。土用丑の日みたいな歳時記系の記事も書きました。

民俗学の勉強は独学です。この記事についても認識不足の点があれば遠慮なくご指摘ください。

 

中世の踊りが現代によみがえる

さて、本題。

今回、十条にある「シネカフェ・ソト」で王子田楽のドキュメンタリーを上映すると聞いて見に行きました。しかも、上映後には王子田楽を指導されている高木さんのトークショーもあるというのです。

私の民俗学の勉強は読書が中心のため、どうしてもフィールドワーク的な部分が弱いです。今回の上映は郷土芸能を担っている方から直接話を聞ける貴重な機会とあって喜んで足を運びました。

 

ドキュメンタリーの撮影は今からちょうど2年前に行ったそうです。それから編集に結構時間がかかり、初お披露目が今になったのだとか。ナレーターの声も監督ご本人のものっぽかったです。仕事の合間をぬってライフワークとしてやっていたのかな……。

監督は王子が地元というわけではないけれど王子田楽のことを知って「映像に残したい」と思って今回の撮影に挑んだそうです。すごい熱意です。内容も王子田楽がどんなもので、どんな人たちがこの郷土芸能を支えているのかがとてもよくわかるものでした。

以下はドキュメンタリーで知った王子田楽の情報です。

 

王子田楽は王子神社に伝承されている民俗芸能。発祥は中世の頃と言われています。田楽、といえば普通は豊作を願うための踊りですが、王子田楽は魔除けの意味合いが強いため赤い短冊状のものを垂れ下げた花笠をかぶって舞います。五行思想の影響も受けている、とかで、日本の伝統芸能にある系統の色使いとはちょっと違う、極彩色の衣装です。

 

王子田楽は戦争を境に一度なくなっていますが、その後、王子田楽衆代表の高木さんが中心となって再興を果たし、昭和58年に再び演舞されるようになりました。

高木さんが王子田楽の再興を考えたのは町のお年寄りから王子田楽の笛のメロディを聞いたことがきっかけだったそうです。大切な宝物を預けられたような気分で、もしも自分が王子田楽を復活させなければ、この舞は永遠に失われてしまう。そう思い、たった一年で復活まで漕ぎつけたそうです。

一年で復活させた、と聞くと、結構いいかげんに再現したのでは、などと思ってしまいますが決してそんなことはありません。舞について書かれている古い文献を取り寄せ、配達の仕事の合間も笛を吹き……。結果、ほとんど寝る時間はなかったそうです。当時、院生として資料を提供した金沢文庫学芸員の方も「私が渡した資料で参考になったのは衣装ぐらいで、資料を渡したときには舞のほうはほぼ完成していた」とおっしゃていました。

 

現在の王子田楽の練習風景もドキュメンタリーにはおさめられていました。

これが想像以上にハード。YouTubeに上がっていた映像を見て、勝手に大人が舞っているもの、と思っていたのですが実は踊り手は小学生が中心。そうとは思えない優雅な舞が簡単にできあがるはずもなく、時計が20:40を指している場面もありました。

 

郷土芸能の意味って?

高木さんは小学生を相手に根気強く「舞の意味」を伝えようとします。舞を覚えるだけでも大変なのに「土は大事なものなんだからもっと優しく着地しないと」などの神話的な意味づけの指導を受け、小学生は少々メモリオーバー気味。見えますよ。あなたの頭上に大きな「?」マークが。

でも、意味を教えることはとても郷土芸能において大事なことだと私は思いました。

 

そもそも郷土芸能と普通の芸能とではなにが違うのか。

私は「おまじない」としての様式があるかないかだと思います。

 

普通の芸能は舞にしろ演奏にしろ、そのパフォーマンスそのものに意味があります。パフォーマンスから感動を得ることがおもな目的だからです。

しかし、郷土芸能は違います。パフォーマンスがうまくできるかどうかではなく、定められた形式通りにパフォーマンスできるかどうかが大切となります。

なぜなら、それはかつて「おまじない」として機能していたものだからです。

 

「おまじない」は目に見えない不思議な力を呼び、人々の心を呪術師のほうへと引き寄せるものです。なぜその行為によって不思議な力を呼べるのか、人々が夢中になってしまうのか、メカニズムは不明です。というか、それを探るのは野暮というものです。

「おまじない」はメカニズムがわからないからこそ、きちんと受け継がれた形式通りに行うことが大切になります。だって、もしかしたらその手順を間違えたことによって「おまじない」が効かなくなってしまうかもしれないのですから。それが郷土芸能一番避けたいこと。郷土芸能は不思議な力を呼び、人々にハレのムードをもたらすことこそが目的なのです。

 

まとめると、普通の芸能は説明がなくてもパフォーマンスの理解が可能ですが、郷土芸能は一見理解不能なパフォーマンスに「おまじない」としての意味が隠されている、という言い方もできそうです。だから「おまじない」の意味を知ることは郷土芸能において大切なことなのです。

 

持続可能な郷土芸能のために必要なこと

しかし、こうした「おまじない」は科学の発達により現代ではほとんど意味をなさなくなっています。そのかわり、最近は科学とよく似た「疑似科学」なんてものが新しい「おまじない」として台頭してきているわけです。話を戻します。

効き目のなくなっためんどくさい「おまじない」なんてわざわざやる人そうそういるもんじゃなく、各地で郷土芸能が衰える一因にもなっています。ちょっと前にも「なまはげは来なくていい」と拒否する家が秋田で増えている、というテレビ報道がありました。

上映後のトークショーでも「王子田楽は約30年後に再び担い手がいなくなるだろう」という話に。

こういった現状を高木さんはどうとらえているのでしょうか。この回答が想像以上にラディカルでした。

 

郷土芸能をその土地の人が支える、という時代ではないと思う。こうした郷土芸能は海外の方で日本人以上に興味を持っている方がかなりおられるから、そうした方に参加してもらえばいい」

 

私も実は民俗学をかじり始めてまったく同じことを考えていました。土地の人が受け継ぐのと外部の興味を持った人間が担うのでは意味が変わってしまうだろうけれど、町の伝統が担い手不足で消えていくよりはいいのではないか、と思っていたのです。

だけど、それは私が伝統を持たない部外者だから言える異端な考え方だと思っていたので、まさか今、現実に郷土芸能を支えている人がこうした考え方を持っているとは思いませんでした。

驚きはまだ続きます。

 

「伝統は昔からずっと変わらない、というのは幻想です。もしも、今のかたちで参加したいと思う人が少なくなってしまうようであれば、みんなが参加したくなるようなかたちの祭にするということは必要なことだと思います。そこは、ちゃんと計算してやっているんです」

 

確かに、郷土芸能も人が考えたものである以上、いつかの時代の誰かがクリエイティブ精神を働かせて作り上げたものです。実際、長い歴史をたどるうちに、形がころころ変わっていった伝統行事は少なくありません。流し雛、曲水の宴が始まりと言われている雛祭りもその一例です。

しかし、これも今、まさにその文化を担っている張本人が「郷土芸能は変わっていくもの」と公言されるとは思いませんでした。

王子田楽が復活を果たせたのは、こうした考えを持つ高木さんが陣頭指揮に立っていたからこそなのかもしれません。高木さんの挑戦には「おまじない」の効力が薄れつつある現代において、郷土芸能を持続可能なものにするヒントがたくさん詰まっているように思います。

王子は王子田楽をはじめとする新たな行事の登場によって、町が活性化しつつあるそうです。郷土芸能の復興はこうしたうれしい副作用も起こしています。

 

 【おまけ】きっとあなたも知らないうちに「おまじない」の力に動かされている

しかし、こんな話を聞いてしまったからには妄想せずにはいられません。

かつて古代の神官が「これをやったらすごい儀式だと思ってもらえそうだな」なんて思いながら新しい儀式を考案していた様を。

なにによって人はそれを「効きそう」と思ってしまうのでしょうか。

「おまじない」が本当にすごいのは、なんだかよくわからないのにハレのモードに人の心をスイッチさせられるところにこそある、と私は思います。

 

ところで、もうすぐ土用の丑の日です。これも昔から人々に伝わる伝統行事のように思われていますが、始まりは商売不振の鰻屋に平賀源内が勧めた「本日丑の日」というキャッチコピーだったと言われています。

そもそもは丑の日に「う」の付くものを食べるといい、という言い伝えだったらしく、瓜、梅、馬なんかも当時は食べられていたそうです。また、土用と言ったら七月だけでなくて立春立夏立秋立冬の頃と四つあるはずなんですが、今残っているのは不思議と立秋前後にある土用丑の日で、食べているのも鰻だけです。

 

なんで旬でもない鰻じゃなくちゃいけなかったのか。なんで「本日丑の日」と言わなければ鰻は売れなかったのか。なんで立秋前後の土用丑の日の風習だけが残ったのか。

 

まことしやかに夏バテ防止の昔の人の知恵みたいに伝わっていますが、数ある風習のバリエーションの中からこれが残った本当の「メカニズム」はわからないことだらけだと言ったほうがいいと思います。

 

でも、その「メカニズム」がわかっちゃったらつまらないような気もします。さっきも言った通り、それを探るのは野暮というものです。

今日も私たちは知らないうちに見えない「おまじない」の力に動かされているのでしょう。でも、そのおかげで毎日がいきいきとメリハリのあるものになっているのではないでしょうか。