フェンスに揺れるスカート

深森花苑のブログです。

「2020年東京オリンピック・パラリンピック 未来へのレガシーにするための7つの提言」レポート

2015年11月14日に日本建築学会 建築会館ホールで行われた「2020年東京オリンピックパラリンピック 未来へのレガシーにするための7つの提言」に行ってきました。シンポジウムでは、ヒルサイドテラス東京体育館などを手がけ、新・国立競技場案に異議を唱えた建築家・槇文彦さんの特別講演を中心に、近い未来、東京はどう変わっていけば良いのか、さまざまな角度から提案がなされました。気になった言葉を中心に当日の様子をレポートします。

なお、録音等はしていないため、少し槇さんのお話した意図からそれた解釈をしている箇所もあるかもしれません。あくまで当日の話を受けての私の解釈という点、ご承知おきのうえお楽しみください。

 

カテドラルが見えない場所にある東京の街並み

これからの東京の話の前に、そもそも東京はどのように発展してきたのか、江戸時代の遊興地をプロットした地図を見せながら話す槇さん。地図にプロットされた名所はどれも武士のお屋敷街からは離れた場所にあることがわかります。この頃の遊興地といえば、飛鳥山公園や亀戸天神など寺社仏閣と結びついているところが多いもの。

 

こういった寺社仏閣は必ず奥まった場所にありました。神様は人が入れない領域から里宮、野宮、と人のいる場所に移動していくと考えられていたのです。私たちが街を歩いているとき、大通りから一本離れた場所にひょっこり神社や祠が顔を出すことがあります。銀座もそうした街の一つです。「カテドラルが見えない場所にあるのは東京の特色。散歩できる静かな小路のおだやかさを生かしていくべきでは」と槇さん。

 

都市の孤独を受け入れられるオープンスペースを

ジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』に描かれた人々の視線がすべて別々であることを説明する槇さん。「19世紀のフランスでは既に都市に住む者の孤独が始まっていた、ということです。」

そこで槇さんが手がけた表参道のスパイラルビルの話に。国道246号線を臨むスパイラルビルの階段の途中にはいくつも椅子が置いてあります。ぼーっとしたい時に訪れる、私の大好きな場所の一つです。この椅子は、開館当初は置かれていませんでしたが、途中から置かれるようになったそうです。「ビルのコンテンツが変わってもずっと変わらない場所を作りたかったから椅子を置いた」とのこと。

人々が窓から見ているのは、同じものなのでしょうか。それとも、場所が同じでもやはり別々のものを見ているのでしょうか。

 

オープンスペースの設計については、槇さんの手がけてこられた建築物からさまざまな例が挙げられました。

TDU(東京電機大学)の東京千住キャンパスではさまざまな工夫が凝らされています。カフェ前の軒下スペースはイタリアで行われているフリーマーケットのスペースを参考にして作られたものだそう。キャンパス内には幼稚園児がお散歩に来たり、お祭の御神輿がやってきたり、広く開かれている雰囲気。人の交流が盛んに起こっていることが見受けられます。

一方、代表作の一つであるヒルサイドテラスにも言及。こちらもオープンスペースが生かされていることを説明。自由に行き来できる共有スペースはセキュリティを考えれば絶対安全とは言えません。しかし、ヒルサイドテラスではこの共有スペースで警察沙汰になるようなことは今までありませんでした。これは日本の治安状況だからできる、とも。

 

ここで、フランスのテロ事件にも言及。

東京オリンピックに向けて作られたものが、その後、30年経ってどうなるかを私は見ることができません。こうしたオープンスペースをこれからも維持できるのか、というのは次のジェネレーションの課題でしょう。」

重く受け止めたい言葉です。これは建築がどうこう、という話でもないように思います。今の建築思想を維持しようとするのであれば、ソフトである人も努力が必要なのかもしれません。

 

都市の方向性をリードするオープンスペースの設計を

皇居を巨大なオープンスペースと考えると、それによって東京という都市が4つにゾーニングされていることがわかる、という話から、オープンスペースは巨大化すると都市の方向性をリードする力を持つ、という話へ。

街ありきで設計するのではない、東京オリンピックのような巨大なオープンスペースの設計を初めからできる機会があるのなら、あらかじめその効果を設計しておいてもいいのでは、というのが槇さんからの提案でした。あくまでそこに住まう人を生かすための黒子に徹した設計への思想が格好良すぎます。しびれます。

最後は、槇さんが手がけた9.11テロ跡地に建てられた「4WTC」のレポート映像で締め。「4WTCは脇役。主役はグラウンド・ゼロの公園のほう」と話す槇さん。めざしたのは光の彫刻なのだそう。全面鏡のようになっていて、周りの景色が映りこむビルは確かに光の彫刻と名乗るのにふさわしいもの。ビルのエントランスも鏡張りになっていて、背後にあるグラウンド・ゼロの緑が映ります。場所が違っていてもかつてのワールドトレードセンタービルとのつながりを感じることができるようになっているのです。そしてもしも、このビルがまたテロの標的となることがあったとすれば、そのとき、テロ犯が最後に見るのは暴力に身を任せた自分自身の姿。テロへの抗議の意志も感じられます。

 

槇文彦さんの講演の後はパネルディスカッションもあったのだけど、時間が押していたのか、概要をさらっと舐める程度の内容だったのでこちらは割愛。

元々好きな建築家でしたが、お話を聞いてますます好きになってしまいました。

 

 

スパイスココアとロフトのUST

「寂しい」が肥大化してくると、心の眼を覆う巨大な被膜になる。なにも心に映らない気がして、そわそわ落ち着かなくなってくる。

手が動かない。

不安だ。

寂しい。

不安だ。

寂しい。

不安だ。(以下、終了条件まで繰り返し。)

あまり健康的でないかんじだ。

 

誰か話し相手でもいようものなら、被膜は風船みたいなものだから、ぱんと弾けて消えてなくなるのに、被膜がそれを調達する術を奪うからやっかいだ。

そういうときは、ひとまずココアでも飲んで身体をあっためるのが一番いい。

それもちょっとスパイスの効いているやつ。

「スペキュロスココア 5種のスパイス」というのが私のお気に入り。

お湯を注げばいいだけのスティックタイプでコンビニで買える。

お湯は少なめにしてどろどろにして飲む。

魔女の家の台所みたいな香りが心を落ち着かせてくれる。

 

そして、USTREAMの画面を開いておく。

人の声が聞けるから。

テレビだってそれはできるはずなんだけど、その場で参加している感じが出るのはやっぱりUSTREAMの生中継や録画番組だ。

私はロフトのトークイベントを見るのが好きだ。

財布に余裕があるときは会場にも行く。トークを楽しみながらごはんが食べられるひとりごはん。

笑うのも立派なごはんだからね。

 

黒そいのムニエルとなすのグリル

さみしい日の夜は思考がループする。食べなければ、と思っても料理の工程を模索するだけでエベレストに登るほど果てしない行程のように思えてくる。

悪さをしてるやつの正体はだいたい知れている。空腹は脳内で暴れ回る不快な一味の下っ端だ。あいつをまず倒さないと。

 

でも、あいつらはいつも集団で押し寄せる。ひとりぼっちで対抗するのはとても難儀だ。

なにを作って食べたって、ひとりでさみしく夕ごはんを食べている現実は変わらない。

ひとり分の小さいサラダ、ひとり分の日持ちする煮物。

食べてるだけでさみしくなる。

 

華やかなアクアパッツァやら彩りいっぱいの野菜のグリル。

みんなで囲んでパーティーすれば湿った気持ちもふっとぶかもね。でも、呼べる人はいないんだ。食べきれないで残った魚。余った食材が棚で腐って仕事を増やすのだろう。

 

なにか策をくれよ、マインドネス。

スーパーで「黒そい」という魚が目に入った。鯛をひとまわり小さくして、細身にした黒い魚。

みんな見慣れない魚なんだろう。売れ残って半額になっていた。

頭から尻尾までついているけれど、ひとりで食べきれない大きさではない。

 

ニンニクを刻んで、フライパンで熱したオリーブオイルのなかに投入する。

香りがたったら、小麦粉をまぶした黒そいを入れる。

黒そいを焼いている間になすの調理も。

縦に半分。あとは縞の切れ目のざくざく。オリーブオイルを入れた皿にならべてオーブントースターに10分。

黒そいは両面焼けたら、溶かしたバターとレモン汁を絡ませ胡椒を振って完成。

オーブントースターで焼きあがったなすには醤油をじゅっ。

今日の夕ごはんができた。

 

アクアパッツァのならぶホームパーティーなんてできないけど、華のある魚料理とグリル野菜ならできる。

ふかふかの黒そいの身はうきうきのパーティータイムの味がした。

なだらか

時間はあらゆるものを淘汰していく。この世に存在する事象は全てなだらかになっていくしかない。誰もその力に抗うことはできない。

昨日の夕御飯は思い出せても、一月前の朝御飯は思い出せない。それと同じこと。

しかし、人は抗おうとする。
小さな波を起こし、なだらかになろうとする時間に軛をかける。

暗黙の了解となっている事項を問題として掲げ、法律として明文化したり。

見た目はそっくりだけど資材は殆ど当時のものを捨て去ったことによって完成された新たな建築物に満足してみたり。

マンネリだったカップルが小さな喧嘩をきっかけに恋を再燃させたり。


そういうことを繰り返す。


でも死者は
波を起こせない。

死者をとりまく事項はなだらかになっていく。
遺された者が抗おうとすることもある。しかし、その元となる記憶も時間の淘汰を受けるので、そのイメージは海に流される水墨画のように、徐々に徐々に輪郭がぼんやりとしていく。

今日は昨日から一日遠ざかった。
こうしてなだらかに、少しずつ遠くなっていく。

せせらぎを聞きながら

川沿いの腰掛けで時を過ごす人がいる。

 

コンビニの袋を持った会社員、ノートパソコンを操るジャンクフードが好きそうな男、煙草を吸う髪の明るい女、iPhoneからイヤフォンへ伝う音楽に耳を傾けるジャージ姿のティーンエイジャー。

そういう人がいれかわりたちかわり、日によっていたりいなかったりする。

 

川といっても、鴨川みたいに情緒あふれる場所じゃない。暴れ川を押さえ込むために人間が建てた、刑務所みたいな護岸がそびえたつ。川はその間をちょろちょろと流れている。枯れかけの岩清水みたい。

 

そんな川でも、夜になって街の音が消えれば、せせらぎの音が聞こえてくる。

腰掛けに座っているのは、それを知っている人。

 

今日は月が出ている。薄ら雲が隠しているが満月だ。

腰掛けに座っているのは、電話で話し込む女。明るい声で矢継ぎ早に会話を繰り出し高らかに笑う。少しも間なんて作らない。

 

私はこの道を通るときに、腰掛けに座っている人がちょっと羨ましくなる。情緒があふれていやしないか。でも自分が座りたいとは思わない。道行く人みんなに見られて晒しものみたい。

 

あの人たちは恥ずかしくないの?

ううん、せせらぎに隣りにいて欲しいだけ。

 

電話を切った後、どこにいるかが肝心だった。

自分の部屋だと、部屋にいることもつらくなる。

繁華街じゃ、雑踏が自分の濃度も下げてしまいそう。

それじゃ困る。もしも、これが最後の電話になったとしても、三年後あなたの記憶にまだ私が残っているように意味を置いていきたい。

もしもあの腰掛けに私が座るときがあるとしたら、そんなとき。

 

大丈夫、あなたのことじゃないんだ。

腰掛けに座って今も電話に話しかけている女から私は遠ざかっていく。

あなたの明るい話し声に表裏なんてあるわけない。あなたは突然かかってきた友人からの電話についつい熱が上がり、腰掛けが必要になっただけ。

そう願いながら、通り過ぎる。

せせらぎの音が聞こえなくなるまで5秒もかからない。

 

 

近道を探す

スーパーマーケットに行くまでの最短経路がわからない。川のせいだ。うねうねとカーブを描く舗装路が方向感覚を麻痺させる。

付き合わされるのはごめんだ。私は川の裏のまっすぐな道を歩いていた。毎日、毎日。たった二回、曲がり角を曲がるだけ。

強欲な人間なので、やがてそれでも満足がいかなくなった。
スーパーマーケットまでの道のりは直角に二度曲がるよりも斜辺をひたすら行くほうが近いはずだ。三平方じゃない定理によって。

私は近道を探すことにした。
川を越えたら、スーパーマーケットの位置を野生の嗅覚で感じ取りながら適切な場所で適度に曲がり角を曲がる。そうすれば目の前にスーパーマーケットが現れるはずだ。
(この辺りか)
曲がった先の道はまっすぐではなかった。緩やかなカーブ。川沿いの道だけが曲がっているわけではなかったのだ。方向感覚のずれが頭の中で修正できない角度になってくる。まずい。もしかしたら、いつもよりももっと遠回りをしているかもしれない。

五十歩も歩けば知らない道の終端で、辻向かいに見慣れた黒い石垣が現れた。え、と声が出そうになる。いつもスーパーマーケットへ行く道の途中でも見かける石垣だ。ただし、その出番はもっと後のほう。毎日、まっすぐ歩いていたと思っていた道は、かなり遠回りだったのだ。

私はうれしくなって、スーパーマーケットの帰り道、またその近道を歩こうとした。
けれど、私は曲がる道を間違えたようだ。さっきの道とは別の道に出た。老人ホームの窓から柔らかい灯りがぽつりぽつりと灯っている。それでもいつもと比べたらずっと早く家まで着いた。なんだ、こんなに早く行ける道があったんじゃないか。次からはもうまっすぐな道なんて歩かない。決意がほくほくとはずんだ。

今日は昼間の買い物だ。この前よりもずっと早くスーパーマーケットに行けるだろう。
私はこの前と同じ橋を渡り、同じ曲り道を曲がったはずだった。たくさんの植木鉢が玄関への階段を埋めていた。ミニバラ、ラナンキュラス、マーガレットにポーチュラカ
どうやら道を間違えたらしいことは、スーパーマーケットまでかなりの時間を要したことで気が付いた。