北海道と東京ではカルピスの「普通」の作り方が違った話
子どもの頃、一番うれしかったお中元が「濃縮カルピス」だった。
カルピスを飲むときにはきまって特別なグラスが出された。苺がプリントされていたり海の風景が広がっていたり、柄はそのときどきで違ったけれど、食器棚の奥から必ずぴかぴかのグラスを引っ張り出して飲んでいた。
(きっと、これは友達が遊びに来ていたときに出されることが多かったからだ)
カルピスはそういう、夏の特別な飲み物だった。
特別感をさらに演出していたのが「濃縮カルピス」の存在である。カルピスの白い色とは似つかわしくないその茶色の瓶は親の買い物についていってもまずお目にかかれることはなかった。お中元でなければ出会えなかった代物である。さらに、そいつは原液のままでは飲むことができず、4~5倍に薄めなければ飲めないという。幼心に「麺つゆか」と思ったものである。粉タイプの濃縮飲料ならばレモネードや昔懐かしのミロがあったものの、液体タイプの濃縮飲料となると、当時カルピス以外では見たことがなかったと思う。水で割らなければ飲めないカルピスは夏の間だけ見る、特別な飲み物がだったのだ。
思い出話はこの辺にして、本題である。
この濃縮カルピス、どうやって割ってました?
北海道の人と話していたら、あまりに作り方が違っていたのにびっくりしてしまいました。
東京に住んでいた私の場合、
1.カルピス専用のボトル(1リットルぐらい入るもの)を用意します。
2.そこの下5分の1ぐらいに濃縮カルピスを入れます。
3.水をボトルいっぱいぐらいまで入れます。
4.冷蔵庫で冷やします。
5.グラスに注ぎます。
6.おいしい♡
でした。
これが北海道に住んでいた人の場合、
1.グラスを用意します。
2.下6分の1ぐらいに濃縮カルピスを入れます。
3.水道水を入れます。
4.おいしい♡
らしいのです。
なんで北海道ではカルピスの作り置きしないのか、しばらく話して気が付いたのは「北海道の水道水は夏でも冷たいから冷蔵庫で作り置きしなくてもすぐ冷たいカルピスが作れる」ということでした。
……こんな小さなことでも場所によってさまざま変わるもんなんですね。
持続可能な郷土芸能をめざして~王子田楽ドキュメンタリー~
本題に入る前に、私の立ち位置を明確にしておこうと思います。
私が民俗学に興味を持ち始めたのはちょうど5年半ぐらい前。東日本大震災よりは前だったと思います。地方で消えかけている伝統文化におもしろいものが多いことに気づき、もっと多くの人にこれを知ってもらおうと活動を始めました。以来、いくつかのご縁でご当地系の記事も書くようになりました。土用丑の日みたいな歳時記系の記事も書きました。
民俗学の勉強は独学です。この記事についても認識不足の点があれば遠慮なくご指摘ください。
中世の踊りが現代によみがえる
さて、本題。
今回、十条にある「シネカフェ・ソト」で王子田楽のドキュメンタリーを上映すると聞いて見に行きました。しかも、上映後には王子田楽を指導されている高木さんのトークショーもあるというのです。
私の民俗学の勉強は読書が中心のため、どうしてもフィールドワーク的な部分が弱いです。今回の上映は郷土芸能を担っている方から直接話を聞ける貴重な機会とあって喜んで足を運びました。
ドキュメンタリーの撮影は今からちょうど2年前に行ったそうです。それから編集に結構時間がかかり、初お披露目が今になったのだとか。ナレーターの声も監督ご本人のものっぽかったです。仕事の合間をぬってライフワークとしてやっていたのかな……。
監督は王子が地元というわけではないけれど王子田楽のことを知って「映像に残したい」と思って今回の撮影に挑んだそうです。すごい熱意です。内容も王子田楽がどんなもので、どんな人たちがこの郷土芸能を支えているのかがとてもよくわかるものでした。
以下はドキュメンタリーで知った王子田楽の情報です。
王子田楽は王子神社に伝承されている民俗芸能。発祥は中世の頃と言われています。田楽、といえば普通は豊作を願うための踊りですが、王子田楽は魔除けの意味合いが強いため赤い短冊状のものを垂れ下げた花笠をかぶって舞います。五行思想の影響も受けている、とかで、日本の伝統芸能にある系統の色使いとはちょっと違う、極彩色の衣装です。
王子田楽は戦争を境に一度なくなっていますが、その後、王子田楽衆代表の高木さんが中心となって再興を果たし、昭和58年に再び演舞されるようになりました。
高木さんが王子田楽の再興を考えたのは町のお年寄りから王子田楽の笛のメロディを聞いたことがきっかけだったそうです。大切な宝物を預けられたような気分で、もしも自分が王子田楽を復活させなければ、この舞は永遠に失われてしまう。そう思い、たった一年で復活まで漕ぎつけたそうです。
一年で復活させた、と聞くと、結構いいかげんに再現したのでは、などと思ってしまいますが決してそんなことはありません。舞について書かれている古い文献を取り寄せ、配達の仕事の合間も笛を吹き……。結果、ほとんど寝る時間はなかったそうです。当時、院生として資料を提供した金沢文庫の学芸員の方も「私が渡した資料で参考になったのは衣装ぐらいで、資料を渡したときには舞のほうはほぼ完成していた」とおっしゃていました。
現在の王子田楽の練習風景もドキュメンタリーにはおさめられていました。
これが想像以上にハード。YouTubeに上がっていた映像を見て、勝手に大人が舞っているもの、と思っていたのですが実は踊り手は小学生が中心。そうとは思えない優雅な舞が簡単にできあがるはずもなく、時計が20:40を指している場面もありました。
郷土芸能の意味って?
高木さんは小学生を相手に根気強く「舞の意味」を伝えようとします。舞を覚えるだけでも大変なのに「土は大事なものなんだからもっと優しく着地しないと」などの神話的な意味づけの指導を受け、小学生は少々メモリオーバー気味。見えますよ。あなたの頭上に大きな「?」マークが。
でも、意味を教えることはとても郷土芸能において大事なことだと私は思いました。
そもそも郷土芸能と普通の芸能とではなにが違うのか。
私は「おまじない」としての様式があるかないかだと思います。
普通の芸能は舞にしろ演奏にしろ、そのパフォーマンスそのものに意味があります。パフォーマンスから感動を得ることがおもな目的だからです。
しかし、郷土芸能は違います。パフォーマンスがうまくできるかどうかではなく、定められた形式通りにパフォーマンスできるかどうかが大切となります。
なぜなら、それはかつて「おまじない」として機能していたものだからです。
「おまじない」は目に見えない不思議な力を呼び、人々の心を呪術師のほうへと引き寄せるものです。なぜその行為によって不思議な力を呼べるのか、人々が夢中になってしまうのか、メカニズムは不明です。というか、それを探るのは野暮というものです。
「おまじない」はメカニズムがわからないからこそ、きちんと受け継がれた形式通りに行うことが大切になります。だって、もしかしたらその手順を間違えたことによって「おまじない」が効かなくなってしまうかもしれないのですから。それが郷土芸能で一番避けたいこと。郷土芸能は不思議な力を呼び、人々にハレのムードをもたらすことこそが目的なのです。
まとめると、普通の芸能は説明がなくてもパフォーマンスの理解が可能ですが、郷土芸能は一見理解不能なパフォーマンスに「おまじない」としての意味が隠されている、という言い方もできそうです。だから「おまじない」の意味を知ることは郷土芸能において大切なことなのです。
持続可能な郷土芸能のために必要なこと
しかし、こうした「おまじない」は科学の発達により現代ではほとんど意味をなさなくなっています。そのかわり、最近は科学とよく似た「疑似科学」なんてものが新しい「おまじない」として台頭してきているわけです。話を戻します。
効き目のなくなっためんどくさい「おまじない」なんてわざわざやる人そうそういるもんじゃなく、各地で郷土芸能が衰える一因にもなっています。ちょっと前にも「なまはげは来なくていい」と拒否する家が秋田で増えている、というテレビ報道がありました。
上映後のトークショーでも「王子田楽は約30年後に再び担い手がいなくなるだろう」という話に。
こういった現状を高木さんはどうとらえているのでしょうか。この回答が想像以上にラディカルでした。
「郷土芸能をその土地の人が支える、という時代ではないと思う。こうした郷土芸能は海外の方で日本人以上に興味を持っている方がかなりおられるから、そうした方に参加してもらえばいい」
私も実は民俗学をかじり始めてまったく同じことを考えていました。土地の人が受け継ぐのと外部の興味を持った人間が担うのでは意味が変わってしまうだろうけれど、町の伝統が担い手不足で消えていくよりはいいのではないか、と思っていたのです。
だけど、それは私が伝統を持たない部外者だから言える異端な考え方だと思っていたので、まさか今、現実に郷土芸能を支えている人がこうした考え方を持っているとは思いませんでした。
驚きはまだ続きます。
「伝統は昔からずっと変わらない、というのは幻想です。もしも、今のかたちで参加したいと思う人が少なくなってしまうようであれば、みんなが参加したくなるようなかたちの祭にするということは必要なことだと思います。そこは、ちゃんと計算してやっているんです」
確かに、郷土芸能も人が考えたものである以上、いつかの時代の誰かがクリエイティブ精神を働かせて作り上げたものです。実際、長い歴史をたどるうちに、形がころころ変わっていった伝統行事は少なくありません。流し雛、曲水の宴が始まりと言われている雛祭りもその一例です。
しかし、これも今、まさにその文化を担っている張本人が「郷土芸能は変わっていくもの」と公言されるとは思いませんでした。
王子田楽が復活を果たせたのは、こうした考えを持つ高木さんが陣頭指揮に立っていたからこそなのかもしれません。高木さんの挑戦には「おまじない」の効力が薄れつつある現代において、郷土芸能を持続可能なものにするヒントがたくさん詰まっているように思います。
王子は王子田楽をはじめとする新たな行事の登場によって、町が活性化しつつあるそうです。郷土芸能の復興はこうしたうれしい副作用も起こしています。
【おまけ】きっとあなたも知らないうちに「おまじない」の力に動かされている
しかし、こんな話を聞いてしまったからには妄想せずにはいられません。
かつて古代の神官が「これをやったらすごい儀式だと思ってもらえそうだな」なんて思いながら新しい儀式を考案していた様を。
なにによって人はそれを「効きそう」と思ってしまうのでしょうか。
「おまじない」が本当にすごいのは、なんだかよくわからないのにハレのモードに人の心をスイッチさせられるところにこそある、と私は思います。
ところで、もうすぐ土用の丑の日です。これも昔から人々に伝わる伝統行事のように思われていますが、始まりは商売不振の鰻屋に平賀源内が勧めた「本日丑の日」というキャッチコピーだったと言われています。
そもそもは丑の日に「う」の付くものを食べるといい、という言い伝えだったらしく、瓜、梅、馬なんかも当時は食べられていたそうです。また、土用と言ったら七月だけでなくて立春、立夏、立秋、立冬の頃と四つあるはずなんですが、今残っているのは不思議と立秋前後にある土用丑の日で、食べているのも鰻だけです。
なんで旬でもない鰻じゃなくちゃいけなかったのか。なんで「本日丑の日」と言わなければ鰻は売れなかったのか。なんで立秋前後の土用丑の日の風習だけが残ったのか。
まことしやかに夏バテ防止の昔の人の知恵みたいに伝わっていますが、数ある風習のバリエーションの中からこれが残った本当の「メカニズム」はわからないことだらけだと言ったほうがいいと思います。
でも、その「メカニズム」がわかっちゃったらつまらないような気もします。さっきも言った通り、それを探るのは野暮というものです。
今日も私たちは知らないうちに見えない「おまじない」の力に動かされているのでしょう。でも、そのおかげで毎日がいきいきとメリハリのあるものになっているのではないでしょうか。
『海よりもまだ深く』はワナビと家族を巡る物語なのか
是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』を観てきました。とても味わい深い作品だったので、自分の考えをこちらにも記録しておこうと思います。
キャッチコピーは「夢見た未来とちがう今を生きる、元家族(元家族に傍点)の物語」
予告編を見た時と印象の違う映画っていうのはよくあるものですが、この映画はそのずらし方も秀逸だと思ったのでそこから記したいと思います。
予告編では、良多(阿部寛)が作家崩れの探偵をしていること、家族は既に離婚していることが語られます。
「いつか書く、いつか書く」といった趣旨の言葉を繰り返しながら、ギャンブルにうつつを抜かしている姿はいわゆる「ワナビの成れの果て」といった感じでいかにも「現実を受け入れられない」ことが問題であるかのような描かれ方をしています。
予告編でも良太が競輪の結果に「勝負をしろよ、勝負をよぉお!」と怒るシーンが出てきますが「その台詞、自分に言ってやったほうがいいんでない?」とこの姿を見ただけでも思ってしまいます。(そう思わせちゃう、この迫真であるがゆえに笑いを誘う阿部寛の演技がまたすんばらしいのです)
キャッチコピーからも、この現実を受け入れる過程が映画の主題となるのかな、と予感させられました。
しかし、これが見始めると、どうもそれだけじゃないぞ、ということに気づかされます。
明言されない父と母の過去
映画は良多の父が他界し、葬儀諸々が済んで日常へと帰りつつある日の一コマから始まります。良多が実家を訪れると、母・淑子(樹木希林)がこんな気になる台詞を吐きます。
「あんたは嘘を吐くのが下手なんだから。お父さんと違って」
逆説的に、お父さんは嘘が上手かった、ということになります。また、父の遺品についてはそのほとんどをすぐに捨ててしまった、という淑子。これはもしや、遺品整理で亡き夫の浮気の証拠を見つけちゃったパターンですね!?
それがあってのことなのか、淑子は同じ団地(※ただし、賃貸ではなく分譲)に住む紳士に熱を上げている様子。生前は夫の借金のために頭も下げさせられたようで、かなり苦労した様子を考えると、まぁ仕方ないことなのかなぁなんて思わされます。ところで、このお父さん、何してた人なんだろう? 良多と同じような感じの人で親子で似ちゃったのかな? ……なんて思っていると、映画中盤で驚きの事実が明かされます。どうやら、良多の父はそのままうまくいっていれば中目黒あたりで豪邸が買えたようなお金持ちだったみたいなのです。え!? まじっすか!? なんでそこからこの団地暮らしになっちゃったんですか!? ……この点については(少なくとも映画1回見た限りでは)詳しく語られておらず、さまざまな台詞の断片から推測するしかありません。良多の家の変遷については、以下のような描写があったと思います。
・小さい頃は台風による川の増水でやばくなるような家で、よく隣の教会に逃げ込んでいた(練馬の家)。
・今の家(清瀬の団地)に引っ越してから台風が来ても心配することはなくなった。
気になるのは、この辺りの話をする際に淑子が「今の団地に越して、もう心配しなくていいと思ったのに」、「こんなはずじゃなかった」と繰り返していることです。夫の借金はこの家に引っ越した後に新しく生まれた問題だったのでしょうか。
少なくとも練馬の家よりはいい環境でありそうな清瀬の団地に引っ越した時点では、家庭は上向きだったはず。夫の借金の原因は……。妥当なところでいくとバブル崩壊かな、と。大金が失われた説明はこれでつきます。しかし、良多の父が質屋に入れて借金していた額を考えると2~3万円の頻繁な出費をしていたようにも思えます。私は、これが浮気相手に流れていたお金だったように思います。
淑子は「女の人が仕事を持っていると(夫婦生活の)我慢が効かない」などの壊れた夫婦関係に異を唱えなかった自分を正当化する発言をそれまでに何度かしていますが、その中でもひときわ印象に残るのが映画タイトル「海よりもまだ深く」のフレーズが出てくるシーンでの一言です。
「そんなに人を好きになることなんてないほうがいいのよ。そんなに好きでなくたって、みんな普通に、幸せそうに暮らしているのよ」
ラジオからはテレサ・テンの「別れの予感」が流れていて、そのサビのフレーズにかぶせて淑子はこの台詞を言います。すでに妻子ある人への、抑えきれない、狂おしいほどの恋心なんてないほうがいいのだ、と、淑子は言っているように思います。
台風はなんの象徴なのか
そんな良多の両親のいろいろと、別れた妻と子とのいろいろが描かれながら物語は佳境に。そのクライマックスの舞台は「台風の夜」です。
あれ? そういえば台風ってさっきも出てこなかったっけ?
そうです、淑子が「もうこれで安心だと思ったのに」という発言をしたのも台風に関連しての発言でした。
他にも良多が息子の真悟に、台風の夜に団地の滑り台でおやつを食べて過ごしたことを自慢していたり、なによりラストシーンが台風でボロボロになったたくさんの傘を前にたたずむ良多でした。
台風ってなんの象徴なんでしょうか。
ここで注目したいのが『海よりもまだ深く』の英語版タイトルが"After the Storm"だということです。テレサ・テンの「別れの予感」のワンフレーズに対応しているのが"After the Storm"だと。これを知って、私は映画の主題にようやく気が付きました。それまで映画のタイトルがあのタイミングで出てきたこともいまいち腑に落ちませんでしたが、台風のような「避けることのできない人生の一大事」の後をどう過ごすかということこそがこの映画の主題だったのだと考えれば納得です。ワナビとか、離婚とか、関係なかった。もっと、誰にでも起こりうる事を描いた映画だった。
ここで、もう一度、なぜ予告編では「しょうもないワナビが現実を受け入れるためにあれこれ頑張る物語」と思わせたかったのか考えてみます。多くのまともな大人は、予告編の良多を見て「俺はここまでひどくない」と思います(※私は自分のことのようで気が気じゃありませんでしたが、話が逸れるのでその話は割愛します)。だから、安心して映画を見られるのです。これが台風のような、避けることができず、誰もがその害を被るようなものだと思ったら、見るのをためらってしまうでしょう。
ラストシーンでは、台風によって壊れた傘がいくつも転がっている姿が描かれています。台風の後、なお強く立っていられるかどうか、というのはさして重要なことではないのでしょう。強く立っていられたのは、強かったからではなく、ただ単に運が良かったから。そう、まるで宝くじが当たるような確率で。ワナビだとかギャンブル好きだとか台風が来る前にどんなスペックだったかなんて本当はあまり関係ないのかもしれない。だって台風はそんなスペックなんておかまいなしで、いつ誰のところにもやってくるものなのだから。
「こんなはずじゃなかった」の騒乱の後に、何を思うか。
それがラストシーンであることからもわかるように、答は観客ひとり一人に託されているのでしょう。
この作品は、ある種の「震災後」を語る映画でもあるのだと思います。
他にも、姉・千奈津の不穏な動きとか、良多の同僚で後輩の町田のいい奴っぷりとか、話したいことが文字通り湧き出る映画なんですが、長くなりましたのでこの辺で。最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後の活動場所と4月1日からの新企画について
Twitterでは少し前にお伝えしたことなのですが、
今後の活動場所を当面の間、
1)ネットでの無料コンテンツ配信
2)店舗での同人誌委託販売
に絞ろうと考えています。
でも2)は1)のアクセスの伸び次第だな、と思っているので、
当面は1)のみになるかと思います。
理由は弾切れです。充填までは結構ながい時間がかかるものと思われます。
対面でお会いする機会は当分うしなわれますが、作品というかたちでお会いする機会は増やしていくつもりなので、このこと自体はそんなに悲観的にとらえていません。
そんなわけで今後はネットでばんばん作品を配信していくつもりです。
その第1弾として、明日から平日のみTwitterで連続ツイノベを投下していきます。
1日=約120字。
某局の連続テレビ小説にあやかって、毎日午前中のどこかで投下します。
小説のタイトルは『アバラスド旅行記拾遺』。そうです。やるやると言っていてなかなか進んでいなかった異世界ファンタジー『アバラスド旅行記』のアナザーストーリーです。
『アバラスド旅行記拾遺』は本編に登場する、ある人物視点の物語となっています。
物語、といっても描かれるのは『アバラスド旅行記拾遺』のほうの主人公の住む村から見える風景が中心。たとえるなら『世界の車窓から』のファンタジー版といったところでしょうか。
ちなみに「アバラスド」は1980~90年代頃の私たちの世界のパラレルワールドという設定。
私たちととても似ているけれど、ちょっと違う。
毎朝、約120字の異世界旅行にお付きあいいただければと思います。
『アバラスド旅行記拾遺』はTwitterアカウント
深森花苑 (@kaenfukamori) | Twitter
から #連続twnv #アバラスド旅行記拾遺 の2つのタグをつけて投下します。
どうぞよろしくお願いいたします。
海原純子さんの「人生相談」の回答にみる後悔の本質
読売新聞「人生相談」での海原純子さんの回答
もともとの記事は2010年4月16日の読売新聞に掲載された「人生相談」だったそうです。(ソースわからなかったので図書館行って調べました。)結構前の記事だったのですね。
Twitterでまわってきた、ペットにまつわる後悔に悩む女性に対して海原純子さんが行った回答があまりにすばらしくて、開眼するような思いがしました。
記事の転載行為はしたくないので、興味のある方は上記の記事を図書館かなんかで読んでもらうとして、ここでは相談内容と回答の要旨だけを述べることにします。
◇
相談者の女性は、10年余り飼っていた猫を喪ったばかり。
重い病気にかかった猫に手を尽くしたものの、飼い猫は苦しみながら逝ったそうです。
猫が元気だったときは猫になぐさめてもらったこともあったのに、私が最期に猫にしたことといえば猫を苦しめただけなのでは、と相談者は後悔の念が絶えない様子。
猫のために、私が今できることはないか、というのが相談の内容です。
これに対して、心療内科医の海原純子さんは「後悔は遺された者の宿命」と回答されています。
どんなに完璧に世話をしたとしたとしても、人は後悔するもの。別の選択肢を選んだとしても、あなたはきっと後悔したはず。それならば、あなたの選んだ道が最良かつ唯一の道だったのだ、と。
最後は、あなたも生前の猫になにも求めなかったでしょう、と前置きしたうえで「あの子も天国で言ってますよ。そのままでいいよ。十分だよってね。」と締めくくっています。
◇
この回答は後悔の本質をとても的確に突いていると思いました。
そもそも後悔は3つの条件がそろってはじめてなりたつものです。
1) 受け入れがたい不幸な現実があること
2) 自分自身は100%の実力を発揮していない(と思っている)こと
3) 今から努力しても結果が覆らないこと
フローチャートっぽくしてみると、こんな感じでしょうか。
結果は覆らないのに、もっと良い選択肢があったように感じて不幸なのが後悔なのだ、ということがわかります。ということは、ある意味後悔も「全力を尽くした」結果なのでしょう。海原純子さんが「最良かつ唯一の道だった」とおっしゃっているのもこうしたことを指していると思われます。後悔とは、自分が最善を尽くしたと認められない挫折経験なのです。
たとえ過去に戻れても……『まどか☆マギカ』ほむらの地獄
後悔しているときに人は「もしも時間を巻き戻してやり直すことができたら」と思うものです。
しかし、何度時間を巻き戻してもうまくいくとは限らない、ということを描いているのがアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の暁美ほむらのエピソードです。
彼女はある後悔の想いを抱いており、過去に遡る力を得るのと引き換えに魔法少女になっています。しかし不思議なもので、これが何度過去に戻ってもほむらの望む結果にならない……。何度も絶望を経験している分、たった一回後悔するよりもこちらのほうが地獄かも。
現実の世界では人生は一回きりですが、たとえ何度も過去に戻れたとしても後悔の想いを抱えた今以上の結果は得られないものなのかもしれません。
後悔を受け入れるということ
こうすると、後悔から立ち直るために必要なのは、自分の選択が最善だったと認めることにあるように思います。環境、性格、習慣、タイミング……もっとなんとかなるような気がしてしまうけれど、それも自分に付随する制約の一部。制約を別のかたちに変える努力は、新たな別の後悔を生む種にもなりかねません。「そのままでいいよ。」というのは相談者の今を肯定する言葉であると同時に、これから後悔をしない最短ルートでもあるように思います。
おまけ
このエントリーを書くために海原純子さんの「人生相談」をいくつか読みました。
そうしたら、ペットロス関連の「人生相談」だけでも今までに何度も書かれているのですね。
人の悩みや苦しみに同じものはないと考えてそれぞれに向き合った結果、まるで自分が体験してきたかのような親身の回答を書けるようになるのだと思いました。
それと、今回、記事の転載というよろしくない方法でこの記事の存在を知ったんだけれども、こうした共有のルールもあまり現代になじまなくなってきている気がします。SNSなどでの共有はOKにするかわり、アップするほうも拡散するほうも著作権を持っている人に1円ぐらい強制的に徴収される、みたいなルールにすれば、安易な転載は減るし、良質なコンテンツがより多く流れるようになるし、著作者も損しないしでいいことづくめのように思うんだけど……無理なんだろうなぁ。
日本とアントニン・レーモンド(その1)
初めに謝罪しておくと、読みたかった書籍がなかなか手に入らなくて、自分が知りたかったところまでアントニン・レーモンドについてdigれていないレポートになってしまいました。
書籍が手に入りしだい、その点についても考察を深めたいと思います。
今回は「日本とアントニン・レーモンド(その1)」と題して、アントニン・レーモンドの生涯についてざっくり述べたいと思います。
ところで、アントニン・レーモンドと言って、すぐにどんな人か思いつくでしょうか。
しかし、とても日本と深いかかわりを持った人なんです。一つずつ見ていきましょう。
例えば、
群馬県の「群馬音楽センター」や目黒区の「聖アンセルモ目黒教会」設計した人です。
……建築好きの人ならこれでぴんとくるかもしれませんが、まだわからないですね。
次、行きましょう。
「聖路加国際病院」、それに「東京女子大学」のちょっとドコモタワーみたいなチャペルも設計しています。
あれもそうだったんだ~と思ってきたでしょ。
次は有名観光地から。横浜の洋館「エリスマン邸」もアントニン・レーモンドです。
え! 有名人じゃん! はい、もっと有名になってもいい人だと思います。
アントニン・レーモンドは帝国ホテルを設計したことで有名なフランク・ロイド・ライトの助手として日本に滞在。戦時中はいったんアメリカへ行き、戦後再び日本へ。アントニン・レーモンドの事務所ではあの前川國男も学んでいたといいます。
モダニズム建築の手法を模索し、新たな挑戦を生涯にわたり続けていたアントニン・レーモンドが日本という場所にこだわっていたのは、モダニズム建築の真髄が日本建築のなかにある、と考えていたからです。
アントニン・レーモンドは装飾ばかりこらした重々しいヨーロッパの建築をひどく嫌っていました。アントニン・レーモンドが建築において重視したのが機能美と自然との調和。その双方を体現していた日本の建築だった、というわけです。
群馬音楽センターと同じ高崎市内に保存されている井上邸は、焼失してしまったアントニン・レーモンドの笄町自邸の平面図をもとにそっくり再現した建物で、現在は一般に公開されています。
一度行ったことがあるんですが、洋風のログハウスを日本の長屋に流し込んだような和洋折衷の不思議な建物でした。アントニン・レーモンドの建築観が伝わる建物だと思います。
ここまでアントニン・レーモンドの「正」の功績を見てきましたが、後半では「負」の部分も見ていきたいと思います。
アントニン・レーモンドの「負」の功績。日本人は彼に大きなかかわりがある。そのことは、もっと知っておいてもいいと思います。
アントニン・レーモンドは戦時中、空襲の際、どうすれば効率よく日本の住宅を燃やすことができるか、という研究に携わっていました。この研究結果にもとづき行われたのが東京大空襲です。
見慣れたものを見慣れないものにすること
雑誌はおしゃれであればいい、というものでもない。ときには不動産の広告やお得意さんからもらった風景のカレンダーなんかが役に立つ。コツは既成概念を捨てて、対象を見つめることだ。
本当に良い素材を手に入れるためには、どこが気に入って、どこが気に入らないのか、自分自身の感性でよく吟味しなければならない。対象物の稜線に沿って切り取る必要はない。服が気に入らなければどんな有名ブランドの服でも容赦なく切り落とす。うつむき加減の色鮮やかなカラスノエンドウの写真があった。服はこれにしよう。
コラージュは見慣れたものを見慣れないものに変えてくれる。可能性なんてないと思っていた風景を、夢の中のような幻想的な風景に。素材そのものが変わっているわけではない。置いた場所を変えただけ。彼女が秘密のノートを人に見せると、たくさんの人がノートを見にやってきた。
後日、秘密のノートの噂を聞きつけて、切り落とした服のデザイナーという人が怒りながらやってきた。
「どうして私の服を貧相な花の写真に替えたのよ! こんな使われ方をするとは思わなかった。私がこの服を作るのにどれだけ苦労したか、あなたはなにもわかっちゃいない」
あまりにも怖い怒り方だったので、そのほうが素敵だと思ったから、とはとても言えなかった。ごめんなさい、もうしませんと謝って、秘密のノートを引き出しの奥にしまって、もう誰にも見せなかった。
秘密のノートを人に見せたりはしなくなったけれど、コラージュはこっそり続けていた。ある日、古い雑誌の中にあのデザイナーの服そっくりの服をみつけた。なんだ! あの人はこの服をうまく「切り取った」だけだったんじゃない。
二つのそっくりの服を、荒野をバックにこれから決闘でも始まるがごとく向かい合わせに並べたい衝動にかられたが、それはしなかった。古い雑誌はめったに手に入らない。品が良いとは思えない衝動に任せて切り取る気にはなれなかったのだ。
彼女の死後、部屋からは大量のコラージュのノートが発見された。なかには1万5千ページ以上にわたる物語の形式をとっているノートさえあった。
「たいへん創造的な蒐集家だ」
評論家たちは秘密のノートをこぞって評価した。展覧会も世界中で行われ、ノートの原画は飛ぶように売れた。
彼女は著作権法を知らなかった。
著作権法にのっとれば、デザイナーの「切り取り方」は合法だが生前の彼女の「切り取り方」は違法だったそうだ。その事実が覆りようもないことは理解しているつもりだ。しかし、どうもそこに創造の不平等があるような気がしてならない。
見慣れたものを見慣れないものにする、という意味で彼女たちは同じ種類の人間ではなかったか。
今日のBGMはあいくれの「なんとなくの日常」でした。
「安藤裕子の声は好きなんだけど、もっとロック色強い曲が好き」と感じる人なんかにはおすすめ。