「負け犬」根性を育てる優しさなんて捨てちまえ
人は誰しも多かれ少なかれ弱点を持っている生き物だ。その弱点を補うために、ちょっと自分とは違うタイプの人と交友関係を持って、虎の威を借る狐というわけじゃないけれど自分にはない力を発揮したりする。私にとってその「虎」にあたる人はよく通う整体院の先生。いかにも九州出身って感じの気の強い女性だ。ふと思うところがあって、その先生に言われて今も大事に守っていることを書き留めておこうと思う。
仕事を辞めるときは「負け犬」になるな
私が仕事の常駐先のやり方に辟易し、もう転職しようかと考えている、と話したときに言われたのがこの言葉である。仕事を辞めるときは「負け犬」になるな。いじめられたから、嫌なことがあったから、自分がその場から去るのではまるで負け犬じゃないか。自分は決して悪くない、と思うなら負け犬になってはいけない。そうじゃないと、負け犬根性が染みついてしまう。卑屈になり、自分はだめなやつだと思い込むようになってしまう。
でも、その職場にいるのももう我慢ならないのだ、と私が言うと、整体師の先生は「負け犬」にならない辞め方をしなさい、とアドバイスしてくれた。仕事で成果をあげるのでもいいし、個人的に親しくなるのでもいい。とにかく相手から必要とされる存在になれ、と。そして「あなたがいなければ困る」と思わせたところで辞めなさい。そう言ったのだ。
私は半年後、自分の社会人人生で一番大きな仕事をやり遂げ、成果を上げたところで会社を辞めた。相手から必要とされる存在にまでなれたかどうかはわからないが、その後、転職活動がうまくいかなかったときにも「やっぱり自分がダメなやつだから……」と思うことはなかった。「負け犬」にならないことには成功したのだ。
優しい「いい人」と不幸癖
ここからはその後、私が考えたことだ。
世の中には非の打ちどころのないような「いい人」がいる。しかし、そういう人に限ってなぜか幸福になれない。
貧乏神でもとりついているのか、と思うほど不幸続きである。
なぜだろう、とよく観察していると、どうも近寄ってくる人がどいつもこいつも一癖あるやつばかりのような気がする。たぶん、その「いい人そう」なオーラをかぎつけて「他の人とはうまくいかなかったけれど、この人なら赦してくれるかも~」と近寄ってくるのだろう。
そして、その目論見は多くの場合破たんする。
これは敗戦処理を任されたピッチャーみたいなもので、近寄られた時点でどうにかなるような状況にないことが多いのだが、そういうことが続くので「いい人」は「自分がいたから事態が破たんしたのではないか」と自分を責め始める。
そして「私なんかいたらダメなんじゃないか」と自分からその場を去ろうとしたりする。
これは、負け犬根性を育てる仕事の辞め方と同じ構図である。
挙句、余計に人を責めたりすることができなくなり、もっと「いい人」として振る舞おうとしたりする。
私はこういう「いい人」に言いたい。
「いい人」でいたいならそれでもいいけれど、負け犬にだけはならないでくれ、と。
なぜなら「負け犬にはならない」という意識が結局、自分を守ってくれることになるからだ。
私自身は決して「いい人」ではないが、見た目がおとなしそうなので、やはり負のオーラを持つ人を呼び寄せてしまうことが多かった。
でも「負け犬にはならない」と思うようになってから、後ろに武器でも隠し持っているように思われるのか「利用してやろう」という算段で近づいてくる人はいなくなった。