フェンスに揺れるスカート

深森花苑のブログです。

「アバラスド旅行記」のプロットの変遷を振り返る

「アバラスド旅行記」は私が小説家をめざす普通の女の子でいた最後期の作品。たしか、初稿を書き上げたのは24才ぐらいの頃だったと思う。

それから10年以上の時を経て、プロットは右に左に変遷してきた。その経緯とともに、いまはどこをめざす作品になっているのかまとめておこうと思う。

 

初稿時の「アバラスド旅行記」は、束縛の強い毒親から逃れ、自由に旅するなかで、未知のものに出会い、自分の世界を広げていく……というものだった。主人公が女性、親が毒親、旅する世界で見るものが普段見ているはずのものなのにちょっと異世界のものに見える……という点以外はいたって普通の旅物語だった。

 

「逃げる気かい?」

「違うわ、追いかけるの」

 

初稿にはこんな台詞が出てくるところがある。

主人公は「追いかける」とはいうものの、孤独を好み、人との深い人間関係からは「逃げて」いるように見えた。もしも、旅に「仲間」ができたら? 束縛でない、本当の愛情に触れることができたら? 主人公は旅をやめるのだろうか? そんな疑問から「アバラスド旅行記」を三部構成に書きかえる構想が生まれた。

 

ちなみに、このときの結論はたしか「仲間といったん恋人になるも別れ、また一人で旅することを選択する」だった気がする。

旅仲間から受ける愛は突然届けられた差出人不明の熱烈なラブレターというかたちで表現され、これは現在書いている版の青翅舎の設定に引き継がれている。年齢=彼氏いない歴だった(……正確にいうとそうでない2週間ぐらいの期間があるが、黒歴史なのでなきものにする)当時の私の想像力の限界を感じる。

そして「アバラスド旅行記拾遺」の梔子鈴也にあたる、主人公の相手役をつとめる男性はノリがよくて明るい人物に設定された。この頃は、ただそれだけの人だった。

 

三部構成版「アバラスド旅行記」の設定が固まりきる前に、価値観が一変する出来事が起き、思考は歪んだ。

この物語もその「歪み」の影響を受けることになる。

と、同時に物語を思いつきで組み立てることを脱却し、論理的にプロットを組むことを覚え始めた。そして、物語にはめざす場所がないとうまく回らないことを痛感し、なにがおもしろいのかわからないままプロットをごねくり回す日々が続いた。

その結果、物語はこんなふうに変わった。

 

廃屋に潜り込んだ少女はそこで分厚い手書きの旅行記を見つける。

現実とも虚構とも思える不思議な見聞録だった。

旅をしているのは20代ぐらいの女性のようだ。母親から強い束縛を受け、旅に出る決意をしている。

女性は旅の途中で母親に遭遇し「いつ帰ってきてもいい」と家の鍵を渡されそうになる。しかし、女性はそれを拒否する。

そして、やがて女性は男性の旅人と行動をともにするようになる。なぜか理由はわからないが、男性はこの女性のことが好きらしい。男性に心を開いた女性の旅人は二人でいる幸せを知ると同時に不自由さも感じるようになる。

ある日、男性は旅を辞めて、二人で暮らそうと女性に持ちかける。君を守るためにはそれが一番なんだ。しかし、女性は男性の申し出に恐怖を感じる。男性とのやり取りのなかで、女性は本当の愛があれば二人で暮らすことは束縛ではなく、恐れる必要のないことを知る。

しかし、そのとき、過去に受け取るのを拒否したはずの家の鍵がぼろぼろになって道端に落ちているのを見てしまう。もしも、愛さえあれば家庭を築いても束縛など生まれないというのなら、まず真っ先に向き合うべきは家でひとり私の帰りを待つ母親ではないか。

女性は男性と別れ、ひとり家に向かう。しかし、家に母親の姿はなく、ぼろぼろの空き家があるだけだった。

旅行記はここで途切れる。

廃屋で旅行記を読んでいた少女は背後に気配を感じて振り返る。すると、そこに年老いた老婆がいた。おそらく、旅行記を書いた主だろう。老婆は母親の帰りをここでずっと待っていたようだ。少女が話しかけようとすると、老婆は消えていく。

 

梔子鈴也の名前は、普段軽口を叩いていてうるさいぐらいなのに、最後の別れのシーンでなにも言う権利が与えられないキャラクターであるためこうつけられた。

 

この段階で、疑問がいくつかわいてきた。

なぜ梔子は主人公に恋心を抱いていたのか?

なぜ梔子は主人公を守ることに固執していたのか?

そもそも梔子はどんな人間なのか?

話の大筋はできても、主人公と梔子のやりとりがめっぽう思い描けず、設定を固めるために梔子の少年時代を描く「アバラスド旅行記拾遺」を書き始めた。

そのなかで梔子は、逆算的に、守りたい人(特に女性)を守れなかった人、帰りたくても帰る場所のなかった人、などの設定が生まれた。

また、一人で無鉄砲に村を飛び出していることから、梔子は周りの空気を読まない人だろうと推測した。そこで、自分の周りにいたそういう人の特徴をいくつか組み込んだ。そのなかには小学生時代の私も含まれている。梔子の勝ちへのこだわりは私がモデルだ。

 

梔子の設定が固まってくると同時に、はたして今の「アバラスド旅行記」の結末で、誰が満足するのか、疑問に思い始めた。あまりに希望がなさすぎる。親と主人公は無理でも、せめて梔子と主人公が再会しないと二人の人生を全否定することにならないか。

そこで、廃屋にいた少女は実は主人公の本心であり、廃屋で失意のまま何十年も無為に過ごしていた主人公を立ち上がらせるために現れた、という設定が生まれた。

一応、梔子と主人公は再会できるが、二人とも既にかなり年老いている。

 

こうしてできたのが今の「アバラスド旅行記」のプロットである。

 

この物語でもっとも貧乏くじを引かされているのは、言うまでもなく梔子だ。主人公の気持ちもわからないことはないが、それを実現させるために梔子の失うものが多すぎる。そもそも、拾遺の段階であんなにつらい思いばっかりしてるのに、これ以上苦しませる必要なんてあるんだろうか? ……少なくとも、今の私はそう思う。もう少し、いい展開はないだろうか。

 

幸い、物語がうまく回ってない、と感じたときの修正方法はいろいろある。シチュエーションを変えたり、順序を変えたり、シーンを追加したり。

今回は「一人足す」がいいような気がした。そういえば、主人公と梔子が行動を共にするきっかけとして、存在しない村まで猫を送り届けることを頼まれる、というエピソードを考えたことがあった。あれがもしも人だったら……。

 

例えば、こんな感じ。

二人は、貰い先を見つけてほしい、と一人の少女を託される。家族を失った喪服姿の赤髪の少女だ。それで、二人はしぶしぶ行動をともにするようになるが、どうやらその女の子は二人以外には見えていないらしい。

女の子の姿が見える貰い先がみつかると、二人はそれぞれの旅路に戻っていく。

そんなストーリーでも主人公が人と旅する過程で得なければならないことはみつかるはずだし、得たかった自由も得られるはずだ。

 

このほうが、なんだかおもしろくなりそうだし、ちゃんとしたハッピーエンドを書ける気がするんだ。