見慣れたものを見慣れないものにすること
雑誌はおしゃれであればいい、というものでもない。ときには不動産の広告やお得意さんからもらった風景のカレンダーなんかが役に立つ。コツは既成概念を捨てて、対象を見つめることだ。
本当に良い素材を手に入れるためには、どこが気に入って、どこが気に入らないのか、自分自身の感性でよく吟味しなければならない。対象物の稜線に沿って切り取る必要はない。服が気に入らなければどんな有名ブランドの服でも容赦なく切り落とす。うつむき加減の色鮮やかなカラスノエンドウの写真があった。服はこれにしよう。
コラージュは見慣れたものを見慣れないものに変えてくれる。可能性なんてないと思っていた風景を、夢の中のような幻想的な風景に。素材そのものが変わっているわけではない。置いた場所を変えただけ。彼女が秘密のノートを人に見せると、たくさんの人がノートを見にやってきた。
後日、秘密のノートの噂を聞きつけて、切り落とした服のデザイナーという人が怒りながらやってきた。
「どうして私の服を貧相な花の写真に替えたのよ! こんな使われ方をするとは思わなかった。私がこの服を作るのにどれだけ苦労したか、あなたはなにもわかっちゃいない」
あまりにも怖い怒り方だったので、そのほうが素敵だと思ったから、とはとても言えなかった。ごめんなさい、もうしませんと謝って、秘密のノートを引き出しの奥にしまって、もう誰にも見せなかった。
秘密のノートを人に見せたりはしなくなったけれど、コラージュはこっそり続けていた。ある日、古い雑誌の中にあのデザイナーの服そっくりの服をみつけた。なんだ! あの人はこの服をうまく「切り取った」だけだったんじゃない。
二つのそっくりの服を、荒野をバックにこれから決闘でも始まるがごとく向かい合わせに並べたい衝動にかられたが、それはしなかった。古い雑誌はめったに手に入らない。品が良いとは思えない衝動に任せて切り取る気にはなれなかったのだ。
彼女の死後、部屋からは大量のコラージュのノートが発見された。なかには1万5千ページ以上にわたる物語の形式をとっているノートさえあった。
「たいへん創造的な蒐集家だ」
評論家たちは秘密のノートをこぞって評価した。展覧会も世界中で行われ、ノートの原画は飛ぶように売れた。
彼女は著作権法を知らなかった。
著作権法にのっとれば、デザイナーの「切り取り方」は合法だが生前の彼女の「切り取り方」は違法だったそうだ。その事実が覆りようもないことは理解しているつもりだ。しかし、どうもそこに創造の不平等があるような気がしてならない。
見慣れたものを見慣れないものにする、という意味で彼女たちは同じ種類の人間ではなかったか。
今日のBGMはあいくれの「なんとなくの日常」でした。
「安藤裕子の声は好きなんだけど、もっとロック色強い曲が好き」と感じる人なんかにはおすすめ。