今後の活動場所と4月1日からの新企画について
Twitterでは少し前にお伝えしたことなのですが、
今後の活動場所を当面の間、
1)ネットでの無料コンテンツ配信
2)店舗での同人誌委託販売
に絞ろうと考えています。
でも2)は1)のアクセスの伸び次第だな、と思っているので、
当面は1)のみになるかと思います。
理由は弾切れです。充填までは結構ながい時間がかかるものと思われます。
対面でお会いする機会は当分うしなわれますが、作品というかたちでお会いする機会は増やしていくつもりなので、このこと自体はそんなに悲観的にとらえていません。
そんなわけで今後はネットでばんばん作品を配信していくつもりです。
その第1弾として、明日から平日のみTwitterで連続ツイノベを投下していきます。
1日=約120字。
某局の連続テレビ小説にあやかって、毎日午前中のどこかで投下します。
小説のタイトルは『アバラスド旅行記拾遺』。そうです。やるやると言っていてなかなか進んでいなかった異世界ファンタジー『アバラスド旅行記』のアナザーストーリーです。
『アバラスド旅行記拾遺』は本編に登場する、ある人物視点の物語となっています。
物語、といっても描かれるのは『アバラスド旅行記拾遺』のほうの主人公の住む村から見える風景が中心。たとえるなら『世界の車窓から』のファンタジー版といったところでしょうか。
ちなみに「アバラスド」は1980~90年代頃の私たちの世界のパラレルワールドという設定。
私たちととても似ているけれど、ちょっと違う。
毎朝、約120字の異世界旅行にお付きあいいただければと思います。
『アバラスド旅行記拾遺』はTwitterアカウント
深森花苑 (@kaenfukamori) | Twitter
から #連続twnv #アバラスド旅行記拾遺 の2つのタグをつけて投下します。
どうぞよろしくお願いいたします。
海原純子さんの「人生相談」の回答にみる後悔の本質
読売新聞「人生相談」での海原純子さんの回答
もともとの記事は2010年4月16日の読売新聞に掲載された「人生相談」だったそうです。(ソースわからなかったので図書館行って調べました。)結構前の記事だったのですね。
Twitterでまわってきた、ペットにまつわる後悔に悩む女性に対して海原純子さんが行った回答があまりにすばらしくて、開眼するような思いがしました。
記事の転載行為はしたくないので、興味のある方は上記の記事を図書館かなんかで読んでもらうとして、ここでは相談内容と回答の要旨だけを述べることにします。
◇
相談者の女性は、10年余り飼っていた猫を喪ったばかり。
重い病気にかかった猫に手を尽くしたものの、飼い猫は苦しみながら逝ったそうです。
猫が元気だったときは猫になぐさめてもらったこともあったのに、私が最期に猫にしたことといえば猫を苦しめただけなのでは、と相談者は後悔の念が絶えない様子。
猫のために、私が今できることはないか、というのが相談の内容です。
これに対して、心療内科医の海原純子さんは「後悔は遺された者の宿命」と回答されています。
どんなに完璧に世話をしたとしたとしても、人は後悔するもの。別の選択肢を選んだとしても、あなたはきっと後悔したはず。それならば、あなたの選んだ道が最良かつ唯一の道だったのだ、と。
最後は、あなたも生前の猫になにも求めなかったでしょう、と前置きしたうえで「あの子も天国で言ってますよ。そのままでいいよ。十分だよってね。」と締めくくっています。
◇
この回答は後悔の本質をとても的確に突いていると思いました。
そもそも後悔は3つの条件がそろってはじめてなりたつものです。
1) 受け入れがたい不幸な現実があること
2) 自分自身は100%の実力を発揮していない(と思っている)こと
3) 今から努力しても結果が覆らないこと
フローチャートっぽくしてみると、こんな感じでしょうか。
結果は覆らないのに、もっと良い選択肢があったように感じて不幸なのが後悔なのだ、ということがわかります。ということは、ある意味後悔も「全力を尽くした」結果なのでしょう。海原純子さんが「最良かつ唯一の道だった」とおっしゃっているのもこうしたことを指していると思われます。後悔とは、自分が最善を尽くしたと認められない挫折経験なのです。
たとえ過去に戻れても……『まどか☆マギカ』ほむらの地獄
後悔しているときに人は「もしも時間を巻き戻してやり直すことができたら」と思うものです。
しかし、何度時間を巻き戻してもうまくいくとは限らない、ということを描いているのがアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の暁美ほむらのエピソードです。
彼女はある後悔の想いを抱いており、過去に遡る力を得るのと引き換えに魔法少女になっています。しかし不思議なもので、これが何度過去に戻ってもほむらの望む結果にならない……。何度も絶望を経験している分、たった一回後悔するよりもこちらのほうが地獄かも。
現実の世界では人生は一回きりですが、たとえ何度も過去に戻れたとしても後悔の想いを抱えた今以上の結果は得られないものなのかもしれません。
後悔を受け入れるということ
こうすると、後悔から立ち直るために必要なのは、自分の選択が最善だったと認めることにあるように思います。環境、性格、習慣、タイミング……もっとなんとかなるような気がしてしまうけれど、それも自分に付随する制約の一部。制約を別のかたちに変える努力は、新たな別の後悔を生む種にもなりかねません。「そのままでいいよ。」というのは相談者の今を肯定する言葉であると同時に、これから後悔をしない最短ルートでもあるように思います。
おまけ
このエントリーを書くために海原純子さんの「人生相談」をいくつか読みました。
そうしたら、ペットロス関連の「人生相談」だけでも今までに何度も書かれているのですね。
人の悩みや苦しみに同じものはないと考えてそれぞれに向き合った結果、まるで自分が体験してきたかのような親身の回答を書けるようになるのだと思いました。
それと、今回、記事の転載というよろしくない方法でこの記事の存在を知ったんだけれども、こうした共有のルールもあまり現代になじまなくなってきている気がします。SNSなどでの共有はOKにするかわり、アップするほうも拡散するほうも著作権を持っている人に1円ぐらい強制的に徴収される、みたいなルールにすれば、安易な転載は減るし、良質なコンテンツがより多く流れるようになるし、著作者も損しないしでいいことづくめのように思うんだけど……無理なんだろうなぁ。
日本とアントニン・レーモンド(その1)
初めに謝罪しておくと、読みたかった書籍がなかなか手に入らなくて、自分が知りたかったところまでアントニン・レーモンドについてdigれていないレポートになってしまいました。
書籍が手に入りしだい、その点についても考察を深めたいと思います。
今回は「日本とアントニン・レーモンド(その1)」と題して、アントニン・レーモンドの生涯についてざっくり述べたいと思います。
ところで、アントニン・レーモンドと言って、すぐにどんな人か思いつくでしょうか。
しかし、とても日本と深いかかわりを持った人なんです。一つずつ見ていきましょう。
例えば、
群馬県の「群馬音楽センター」や目黒区の「聖アンセルモ目黒教会」設計した人です。
……建築好きの人ならこれでぴんとくるかもしれませんが、まだわからないですね。
次、行きましょう。
「聖路加国際病院」、それに「東京女子大学」のちょっとドコモタワーみたいなチャペルも設計しています。
あれもそうだったんだ~と思ってきたでしょ。
次は有名観光地から。横浜の洋館「エリスマン邸」もアントニン・レーモンドです。
え! 有名人じゃん! はい、もっと有名になってもいい人だと思います。
アントニン・レーモンドは帝国ホテルを設計したことで有名なフランク・ロイド・ライトの助手として日本に滞在。戦時中はいったんアメリカへ行き、戦後再び日本へ。アントニン・レーモンドの事務所ではあの前川國男も学んでいたといいます。
モダニズム建築の手法を模索し、新たな挑戦を生涯にわたり続けていたアントニン・レーモンドが日本という場所にこだわっていたのは、モダニズム建築の真髄が日本建築のなかにある、と考えていたからです。
アントニン・レーモンドは装飾ばかりこらした重々しいヨーロッパの建築をひどく嫌っていました。アントニン・レーモンドが建築において重視したのが機能美と自然との調和。その双方を体現していた日本の建築だった、というわけです。
群馬音楽センターと同じ高崎市内に保存されている井上邸は、焼失してしまったアントニン・レーモンドの笄町自邸の平面図をもとにそっくり再現した建物で、現在は一般に公開されています。
一度行ったことがあるんですが、洋風のログハウスを日本の長屋に流し込んだような和洋折衷の不思議な建物でした。アントニン・レーモンドの建築観が伝わる建物だと思います。
ここまでアントニン・レーモンドの「正」の功績を見てきましたが、後半では「負」の部分も見ていきたいと思います。
アントニン・レーモンドの「負」の功績。日本人は彼に大きなかかわりがある。そのことは、もっと知っておいてもいいと思います。
アントニン・レーモンドは戦時中、空襲の際、どうすれば効率よく日本の住宅を燃やすことができるか、という研究に携わっていました。この研究結果にもとづき行われたのが東京大空襲です。
見慣れたものを見慣れないものにすること
雑誌はおしゃれであればいい、というものでもない。ときには不動産の広告やお得意さんからもらった風景のカレンダーなんかが役に立つ。コツは既成概念を捨てて、対象を見つめることだ。
本当に良い素材を手に入れるためには、どこが気に入って、どこが気に入らないのか、自分自身の感性でよく吟味しなければならない。対象物の稜線に沿って切り取る必要はない。服が気に入らなければどんな有名ブランドの服でも容赦なく切り落とす。うつむき加減の色鮮やかなカラスノエンドウの写真があった。服はこれにしよう。
コラージュは見慣れたものを見慣れないものに変えてくれる。可能性なんてないと思っていた風景を、夢の中のような幻想的な風景に。素材そのものが変わっているわけではない。置いた場所を変えただけ。彼女が秘密のノートを人に見せると、たくさんの人がノートを見にやってきた。
後日、秘密のノートの噂を聞きつけて、切り落とした服のデザイナーという人が怒りながらやってきた。
「どうして私の服を貧相な花の写真に替えたのよ! こんな使われ方をするとは思わなかった。私がこの服を作るのにどれだけ苦労したか、あなたはなにもわかっちゃいない」
あまりにも怖い怒り方だったので、そのほうが素敵だと思ったから、とはとても言えなかった。ごめんなさい、もうしませんと謝って、秘密のノートを引き出しの奥にしまって、もう誰にも見せなかった。
秘密のノートを人に見せたりはしなくなったけれど、コラージュはこっそり続けていた。ある日、古い雑誌の中にあのデザイナーの服そっくりの服をみつけた。なんだ! あの人はこの服をうまく「切り取った」だけだったんじゃない。
二つのそっくりの服を、荒野をバックにこれから決闘でも始まるがごとく向かい合わせに並べたい衝動にかられたが、それはしなかった。古い雑誌はめったに手に入らない。品が良いとは思えない衝動に任せて切り取る気にはなれなかったのだ。
彼女の死後、部屋からは大量のコラージュのノートが発見された。なかには1万5千ページ以上にわたる物語の形式をとっているノートさえあった。
「たいへん創造的な蒐集家だ」
評論家たちは秘密のノートをこぞって評価した。展覧会も世界中で行われ、ノートの原画は飛ぶように売れた。
彼女は著作権法を知らなかった。
著作権法にのっとれば、デザイナーの「切り取り方」は合法だが生前の彼女の「切り取り方」は違法だったそうだ。その事実が覆りようもないことは理解しているつもりだ。しかし、どうもそこに創造の不平等があるような気がしてならない。
見慣れたものを見慣れないものにする、という意味で彼女たちは同じ種類の人間ではなかったか。
今日のBGMはあいくれの「なんとなくの日常」でした。
「安藤裕子の声は好きなんだけど、もっとロック色強い曲が好き」と感じる人なんかにはおすすめ。
関口芭蕉庵で都会の静寂を知る
新江戸川公園内にある「松聲閣(しょうせいかく)」の改修が終わったそうで、永青文庫のあるあの辺りが注目を浴びる10年に1回ぐらいのチャンス!ということで、そのすぐ向かいにある関口芭蕉庵のことを書いてみます。松聲閣のこと書けよ。そうだね。でも関口芭蕉庵について書きたいんだ。
そんなわけで松聲閣改修のニュースについて知りたい方は、こちらの記事をお読みになって、ここを立ち去ることをおすすめします。
はれて関口芭蕉庵の話題に入ることにして。
まず位置関係についておさえておくことにする。関口芭蕉庵は江戸川橋の椿山荘のちょうど裏手にあたる位置にある。江戸川橋駅から椿山荘に向かって川沿いにひたすら歩いていくと右手に階段が見えてくる。そこをちょっと上った場所あたりだ。ちなみに階段の左手にあるのが話題の新江戸川公園。
ただし、個人的にこのルートはそんなにおすすめではない。長い階段を降りて行った先に関口芭蕉庵を見つけるほうが気持ちが入る気がする。そんなわけで推奨ルートはいったん目白通りまで出て、野間記念館を過ぎたところで左折するコース。途中、丹下健三の建築で知られる東京カテドラル聖マリア大聖堂にも立ち寄れるし。Googleマップも作ってみたので、たいした内容じゃないけどこちらも参考にどうぞ。
野間記念館の角を過ぎたあたりからやばいほどの静けさがこの辺りには漂っているのだが、永青文庫、そしてその先の階段と歩みを進めるごとにその静寂は深まっていくように感じる。ようやくたどり着く関口芭蕉庵の入り口は「本当に入っていいのだろうか」とためらわれるほどひっそり。守衛さんの類も立っておらず、中にも誰もいない。ていうか、客もいない。この塀のちょっと先には川沿いの大きな通りがあることが信じがたい静かさだ。
「芭蕉庵」ということで、芭蕉的な植物も生えている。ちなみに、なぜ「関口芭蕉庵」というのかと言うと、松尾芭蕉が2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだから、らしい(文京区ホームページより)。関口という名がどこからのものなのかはよくわからない。
なぜこんなにも人がいないのか。
おそらくその理由は、ここにいる飢えに飢えまくった大量の蚊のせいだ。10分足らずの滞在で筆者は10か所以上刺された。
でも、23区内で、こんなに無我の境地に至ることのできる静かな場所はそうないと思う。騒がしい場所、人のいる場所はそれだけでストレスの原因になるということが実感できる場所だ。難点の蚊も冬ならばもしかしたら……。いや、でも暖冬だしな……。
冬の関口芭蕉庵に蚊はいるのか。ご存知の方は、どうぞコメント欄にてお知らせくださいませ。
配達人のいない世界
物を送り届けるために人を遣るようになったのは、いつ頃からなのだろう。
贈り物の歴史は案外古く、農耕が根付き始めた頃にはその原型が既に存在していた。神様へのお供えというかたちで土地の統治者に農作物を納め、神様からのお下がりとしてその農作物を土地の者で分け合ったのだ。贈り物の反返しの習慣もこのあたりが起源だという。
小さなコミュニティ内での主従関係そして円滑な人間関係を築くために行われていた贈り物が、やがてコミュニティ同士の主従関係の明示やコミュニケーションの為に行われるようになったことは想像に難くない。コミュニティ同士の権力争いが激しくなり、とても統治者がその場を離れられないとなったときあたりが物を送り届ける遣い、つまり配達人の誕生した瞬間かもしれない。遣隋使、遣唐使あたりは古代の日本でもっとも有名な配達人、とも言えそうだ。
時は変わって現代。配達人を遣るのは自分がその場を離れられない権力者だからでもなんでもなく、ただ贈り物を届けるためだけに現地へ向かう労力も金も惜しいからだ。そう考えると、数百円~数千円で全国に荷物を運んでくれる運送会社ってなんてありがたい存在なのだろう。
世はそんな配達人にとってつらい時代に突入しつつある。荷物を届けられないからだ。荷物の再配達率は約20%にのぼり、ニュースの誌面を賑わせた。贈り物の届け先に主はおろか誰もいない時代。ジーザス。
再配達はコストにしかならないので、再配達率が下がらないなら、と宅配業を諦める人も出てきているらしい。もしも、配達人がいなくなってしまったら……とこのあたりで一度思い浮かべておくことも必要だろう。
配達人がいない、ということは、すべての人の物的・能力的資産がその人に固有する、ということだ。俺の物は俺の物。お前の物はお前の物。それ以上でもそれ以下でもない世界が訪れることになる。
農家の売り物にならなかった芋は土の中で腐り、売り物にならなかった芋で暮らしていた作家志望の貧乏人は飢えに苦しむことになるだろう。自分の身の回りにあるものでなんとかしなければならないことが当たり前になるから、多種多様な商品がない地域の者や自給自足する能力のない者は生活の一部にひどく不自由を強いられるようになるだろう。
他人との関わりだって希薄になるかも。関わることによって得られる交換のメリットがなくなってしまうから。
物流は血液のようなものだ、と誰かがいった。物流が滞る、ということは社会の新陳代謝が不活発になる、ひどく不健全なことなのだ、と。
配達人に関しては、近年、こんな問題も起こっている。配達人を装って押し入る強盗や押し売りが発生しているという問題だ。だから、覚えのない配達が来たときは居留守を決め込むことにしている人もいるという。
血液に潜伏する病気があるのと同じようなものだな、とも思う。
今日のBGMは「動くな」と言っているのに身体が動き出すグルーブ感でいっぱいのMETAFIVE「Don't Move -Studio Live Version-」でした。
「負け犬」根性を育てる優しさなんて捨てちまえ
人は誰しも多かれ少なかれ弱点を持っている生き物だ。その弱点を補うために、ちょっと自分とは違うタイプの人と交友関係を持って、虎の威を借る狐というわけじゃないけれど自分にはない力を発揮したりする。私にとってその「虎」にあたる人はよく通う整体院の先生。いかにも九州出身って感じの気の強い女性だ。ふと思うところがあって、その先生に言われて今も大事に守っていることを書き留めておこうと思う。
仕事を辞めるときは「負け犬」になるな
私が仕事の常駐先のやり方に辟易し、もう転職しようかと考えている、と話したときに言われたのがこの言葉である。仕事を辞めるときは「負け犬」になるな。いじめられたから、嫌なことがあったから、自分がその場から去るのではまるで負け犬じゃないか。自分は決して悪くない、と思うなら負け犬になってはいけない。そうじゃないと、負け犬根性が染みついてしまう。卑屈になり、自分はだめなやつだと思い込むようになってしまう。
でも、その職場にいるのももう我慢ならないのだ、と私が言うと、整体師の先生は「負け犬」にならない辞め方をしなさい、とアドバイスしてくれた。仕事で成果をあげるのでもいいし、個人的に親しくなるのでもいい。とにかく相手から必要とされる存在になれ、と。そして「あなたがいなければ困る」と思わせたところで辞めなさい。そう言ったのだ。
私は半年後、自分の社会人人生で一番大きな仕事をやり遂げ、成果を上げたところで会社を辞めた。相手から必要とされる存在にまでなれたかどうかはわからないが、その後、転職活動がうまくいかなかったときにも「やっぱり自分がダメなやつだから……」と思うことはなかった。「負け犬」にならないことには成功したのだ。
優しい「いい人」と不幸癖
ここからはその後、私が考えたことだ。
世の中には非の打ちどころのないような「いい人」がいる。しかし、そういう人に限ってなぜか幸福になれない。
貧乏神でもとりついているのか、と思うほど不幸続きである。
なぜだろう、とよく観察していると、どうも近寄ってくる人がどいつもこいつも一癖あるやつばかりのような気がする。たぶん、その「いい人そう」なオーラをかぎつけて「他の人とはうまくいかなかったけれど、この人なら赦してくれるかも~」と近寄ってくるのだろう。
そして、その目論見は多くの場合破たんする。
これは敗戦処理を任されたピッチャーみたいなもので、近寄られた時点でどうにかなるような状況にないことが多いのだが、そういうことが続くので「いい人」は「自分がいたから事態が破たんしたのではないか」と自分を責め始める。
そして「私なんかいたらダメなんじゃないか」と自分からその場を去ろうとしたりする。
これは、負け犬根性を育てる仕事の辞め方と同じ構図である。
挙句、余計に人を責めたりすることができなくなり、もっと「いい人」として振る舞おうとしたりする。
私はこういう「いい人」に言いたい。
「いい人」でいたいならそれでもいいけれど、負け犬にだけはならないでくれ、と。
なぜなら「負け犬にはならない」という意識が結局、自分を守ってくれることになるからだ。
私自身は決して「いい人」ではないが、見た目がおとなしそうなので、やはり負のオーラを持つ人を呼び寄せてしまうことが多かった。
でも「負け犬にはならない」と思うようになってから、後ろに武器でも隠し持っているように思われるのか「利用してやろう」という算段で近づいてくる人はいなくなった。