フェンスに揺れるスカート

深森花苑のブログです。

日本とアントニン・レーモンド(その1)

初めに謝罪しておくと、読みたかった書籍がなかなか手に入らなくて、自分が知りたかったところまでアントニン・レーモンドについてdigれていないレポートになってしまいました。

書籍が手に入りしだい、その点についても考察を深めたいと思います。

今回は「日本とアントニン・レーモンド(その1)」と題して、アントニン・レーモンドの生涯についてざっくり述べたいと思います。

 

ところで、アントニン・レーモンドと言って、すぐにどんな人か思いつくでしょうか。

しかし、とても日本と深いかかわりを持った人なんです。一つずつ見ていきましょう。

例えば、

群馬県の「群馬音楽センター」や目黒区の「聖アンセルモ目黒教会」設計した人です。

……建築好きの人ならこれでぴんとくるかもしれませんが、まだわからないですね。

次、行きましょう。

聖路加国際病院」、それに「東京女子大学」のちょっとドコモタワーみたいなチャペルも設計しています。

あれもそうだったんだ~と思ってきたでしょ。

次は有名観光地から。横浜の洋館「エリスマン邸」もアントニン・レーモンドです。

え! 有名人じゃん! はい、もっと有名になってもいい人だと思います。

 

アントニン・レーモンドは帝国ホテルを設計したことで有名なフランク・ロイド・ライトの助手として日本に滞在。戦時中はいったんアメリカへ行き、戦後再び日本へ。アントニン・レーモンドの事務所ではあの前川國男も学んでいたといいます。

 

モダニズム建築の手法を模索し、新たな挑戦を生涯にわたり続けていたアントニン・レーモンドが日本という場所にこだわっていたのは、モダニズム建築の真髄が日本建築のなかにある、と考えていたからです。

アントニン・レーモンドは装飾ばかりこらした重々しいヨーロッパの建築をひどく嫌っていました。アントニン・レーモンドが建築において重視したのが機能美と自然との調和。その双方を体現していた日本の建築だった、というわけです。

 

群馬音楽センターと同じ高崎市内に保存されている井上邸は、焼失してしまったアントニン・レーモンドの笄町自邸の平面図をもとにそっくり再現した建物で、現在は一般に公開されています。

一度行ったことがあるんですが、洋風のログハウスを日本の長屋に流し込んだような和洋折衷の不思議な建物でした。アントニン・レーモンドの建築観が伝わる建物だと思います。

 

ここまでアントニン・レーモンドの「正」の功績を見てきましたが、後半では「負」の部分も見ていきたいと思います。

アントニン・レーモンドの「負」の功績。日本人は彼に大きなかかわりがある。そのことは、もっと知っておいてもいいと思います。

アントニン・レーモンドは戦時中、空襲の際、どうすれば効率よく日本の住宅を燃やすことができるか、という研究に携わっていました。この研究結果にもとづき行われたのが東京大空襲です。

 

 

 

 

見慣れたものを見慣れないものにすること

  雑誌はおしゃれであればいい、というものでもない。ときには不動産の広告やお得意さんからもらった風景のカレンダーなんかが役に立つ。コツは既成概念を捨てて、対象を見つめることだ。

 本当に良い素材を手に入れるためには、どこが気に入って、どこが気に入らないのか、自分自身の感性でよく吟味しなければならない。対象物の稜線に沿って切り取る必要はない。服が気に入らなければどんな有名ブランドの服でも容赦なく切り落とす。うつむき加減の色鮮やかなカラスノエンドウの写真があった。服はこれにしよう。

 

 コラージュは見慣れたものを見慣れないものに変えてくれる。可能性なんてないと思っていた風景を、夢の中のような幻想的な風景に。素材そのものが変わっているわけではない。置いた場所を変えただけ。彼女が秘密のノートを人に見せると、たくさんの人がノートを見にやってきた。

 

 後日、秘密のノートの噂を聞きつけて、切り落とした服のデザイナーという人が怒りながらやってきた。

「どうして私の服を貧相な花の写真に替えたのよ! こんな使われ方をするとは思わなかった。私がこの服を作るのにどれだけ苦労したか、あなたはなにもわかっちゃいない」

 あまりにも怖い怒り方だったので、そのほうが素敵だと思ったから、とはとても言えなかった。ごめんなさい、もうしませんと謝って、秘密のノートを引き出しの奥にしまって、もう誰にも見せなかった。

 

 秘密のノートを人に見せたりはしなくなったけれど、コラージュはこっそり続けていた。ある日、古い雑誌の中にあのデザイナーの服そっくりの服をみつけた。なんだ! あの人はこの服をうまく「切り取った」だけだったんじゃない。

 二つのそっくりの服を、荒野をバックにこれから決闘でも始まるがごとく向かい合わせに並べたい衝動にかられたが、それはしなかった。古い雑誌はめったに手に入らない。品が良いとは思えない衝動に任せて切り取る気にはなれなかったのだ。

 

 彼女の死後、部屋からは大量のコラージュのノートが発見された。なかには1万5千ページ以上にわたる物語の形式をとっているノートさえあった。

「たいへん創造的な蒐集家だ」

  評論家たちは秘密のノートをこぞって評価した。展覧会も世界中で行われ、ノートの原画は飛ぶように売れた。

 

 彼女は著作権法を知らなかった。

 著作権法にのっとれば、デザイナーの「切り取り方」は合法だが生前の彼女の「切り取り方」は違法だったそうだ。その事実が覆りようもないことは理解しているつもりだ。しかし、どうもそこに創造の不平等があるような気がしてならない。

 見慣れたものを見慣れないものにする、という意味で彼女たちは同じ種類の人間ではなかったか。

 

 

今日のBGMはあいくれの「なんとなくの日常」でした。

安藤裕子の声は好きなんだけど、もっとロック色強い曲が好き」と感じる人なんかにはおすすめ。

 

 

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関口芭蕉庵で都会の静寂を知る

 新江戸川公園内にある「松聲閣(しょうせいかく)」の改修が終わったそうで、永青文庫のあるあの辺りが注目を浴びる10年に1回ぐらいのチャンス!ということで、そのすぐ向かいにある関口芭蕉庵のことを書いてみます。松聲閣のこと書けよ。そうだね。でも関口芭蕉庵について書きたいんだ。

 そんなわけで松聲閣改修のニュースについて知りたい方は、こちらの記事をお読みになって、ここを立ち去ることをおすすめします。

www.tokyo-np.co.jp

 

 はれて関口芭蕉庵の話題に入ることにして。

 まず位置関係についておさえておくことにする。関口芭蕉庵は江戸川橋の椿山荘のちょうど裏手にあたる位置にある。江戸川橋駅から椿山荘に向かって川沿いにひたすら歩いていくと右手に階段が見えてくる。そこをちょっと上った場所あたりだ。ちなみに階段の左手にあるのが話題の新江戸川公園。

 ただし、個人的にこのルートはそんなにおすすめではない。長い階段を降りて行った先に関口芭蕉庵を見つけるほうが気持ちが入る気がする。そんなわけで推奨ルートはいったん目白通りまで出て、野間記念館を過ぎたところで左折するコース。途中、丹下健三の建築で知られる東京カテドラル聖マリア大聖堂にも立ち寄れるし。Googleマップも作ってみたので、たいした内容じゃないけどこちらも参考にどうぞ。

 

www.google.com

 

 野間記念館の角を過ぎたあたりからやばいほどの静けさがこの辺りには漂っているのだが、永青文庫、そしてその先の階段と歩みを進めるごとにその静寂は深まっていくように感じる。ようやくたどり着く関口芭蕉庵の入り口は「本当に入っていいのだろうか」とためらわれるほどひっそり。守衛さんの類も立っておらず、中にも誰もいない。ていうか、客もいない。この塀のちょっと先には川沿いの大きな通りがあることが信じがたい静かさだ。

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芭蕉庵」ということで、芭蕉的な植物も生えている。ちなみに、なぜ「関口芭蕉庵」というのかと言うと、松尾芭蕉が2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだから、らしい(文京区ホームページより)。関口という名がどこからのものなのかはよくわからない。

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 なぜこんなにも人がいないのか。

 おそらくその理由は、ここにいる飢えに飢えまくった大量の蚊のせいだ。10分足らずの滞在で筆者は10か所以上刺された。

 でも、23区内で、こんなに無我の境地に至ることのできる静かな場所はそうないと思う。騒がしい場所、人のいる場所はそれだけでストレスの原因になるということが実感できる場所だ。難点の蚊も冬ならばもしかしたら……。いや、でも暖冬だしな……。

 冬の関口芭蕉庵に蚊はいるのか。ご存知の方は、どうぞコメント欄にてお知らせくださいませ。

 

配達人のいない世界

 物を送り届けるために人を遣るようになったのは、いつ頃からなのだろう。

 贈り物の歴史は案外古く、農耕が根付き始めた頃にはその原型が既に存在していた。神様へのお供えというかたちで土地の統治者に農作物を納め、神様からのお下がりとしてその農作物を土地の者で分け合ったのだ。贈り物の反返しの習慣もこのあたりが起源だという。

 小さなコミュニティ内での主従関係そして円滑な人間関係を築くために行われていた贈り物が、やがてコミュニティ同士の主従関係の明示やコミュニケーションの為に行われるようになったことは想像に難くない。コミュニティ同士の権力争いが激しくなり、とても統治者がその場を離れられないとなったときあたりが物を送り届ける遣い、つまり配達人の誕生した瞬間かもしれない。遣隋使、遣唐使あたりは古代の日本でもっとも有名な配達人、とも言えそうだ。

 

 時は変わって現代。配達人を遣るのは自分がその場を離れられない権力者だからでもなんでもなく、ただ贈り物を届けるためだけに現地へ向かう労力も金も惜しいからだ。そう考えると、数百円~数千円で全国に荷物を運んでくれる運送会社ってなんてありがたい存在なのだろう。

 世はそんな配達人にとってつらい時代に突入しつつある。荷物を届けられないからだ。荷物の再配達率は約20%にのぼり、ニュースの誌面を賑わせた。贈り物の届け先に主はおろか誰もいない時代。ジーザス。

 

 再配達はコストにしかならないので、再配達率が下がらないなら、と宅配業を諦める人も出てきているらしい。もしも、配達人がいなくなってしまったら……とこのあたりで一度思い浮かべておくことも必要だろう。

 配達人がいない、ということは、すべての人の物的・能力的資産がその人に固有する、ということだ。俺の物は俺の物。お前の物はお前の物。それ以上でもそれ以下でもない世界が訪れることになる。

 農家の売り物にならなかった芋は土の中で腐り、売り物にならなかった芋で暮らしていた作家志望の貧乏人は飢えに苦しむことになるだろう。自分の身の回りにあるものでなんとかしなければならないことが当たり前になるから、多種多様な商品がない地域の者や自給自足する能力のない者は生活の一部にひどく不自由を強いられるようになるだろう。

 他人との関わりだって希薄になるかも。関わることによって得られる交換のメリットがなくなってしまうから。

 物流は血液のようなものだ、と誰かがいった。物流が滞る、ということは社会の新陳代謝が不活発になる、ひどく不健全なことなのだ、と。

 

 配達人に関しては、近年、こんな問題も起こっている。配達人を装って押し入る強盗や押し売りが発生しているという問題だ。だから、覚えのない配達が来たときは居留守を決め込むことにしている人もいるという。

 血液に潜伏する病気があるのと同じようなものだな、とも思う。

 

 

 今日のBGMは「動くな」と言っているのに身体が動き出すグルーブ感でいっぱいのMETAFIVE「Don't Move -Studio Live Version-」でした。

 

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「負け犬」根性を育てる優しさなんて捨てちまえ

人は誰しも多かれ少なかれ弱点を持っている生き物だ。その弱点を補うために、ちょっと自分とは違うタイプの人と交友関係を持って、虎の威を借る狐というわけじゃないけれど自分にはない力を発揮したりする。私にとってその「虎」にあたる人はよく通う整体院の先生。いかにも九州出身って感じの気の強い女性だ。ふと思うところがあって、その先生に言われて今も大事に守っていることを書き留めておこうと思う。

 

仕事を辞めるときは「負け犬」になるな

私が仕事の常駐先のやり方に辟易し、もう転職しようかと考えている、と話したときに言われたのがこの言葉である。仕事を辞めるときは「負け犬」になるな。いじめられたから、嫌なことがあったから、自分がその場から去るのではまるで負け犬じゃないか。自分は決して悪くない、と思うなら負け犬になってはいけない。そうじゃないと、負け犬根性が染みついてしまう。卑屈になり、自分はだめなやつだと思い込むようになってしまう。

 

でも、その職場にいるのももう我慢ならないのだ、と私が言うと、整体師の先生は「負け犬」にならない辞め方をしなさい、とアドバイスしてくれた。仕事で成果をあげるのでもいいし、個人的に親しくなるのでもいい。とにかく相手から必要とされる存在になれ、と。そして「あなたがいなければ困る」と思わせたところで辞めなさい。そう言ったのだ。

 

私は半年後、自分の社会人人生で一番大きな仕事をやり遂げ、成果を上げたところで会社を辞めた。相手から必要とされる存在にまでなれたかどうかはわからないが、その後、転職活動がうまくいかなかったときにも「やっぱり自分がダメなやつだから……」と思うことはなかった。「負け犬」にならないことには成功したのだ。

 

優しい「いい人」と不幸癖

ここからはその後、私が考えたことだ。

世の中には非の打ちどころのないような「いい人」がいる。しかし、そういう人に限ってなぜか幸福になれない。

貧乏神でもとりついているのか、と思うほど不幸続きである。

なぜだろう、とよく観察していると、どうも近寄ってくる人がどいつもこいつも一癖あるやつばかりのような気がする。たぶん、その「いい人そう」なオーラをかぎつけて「他の人とはうまくいかなかったけれど、この人なら赦してくれるかも~」と近寄ってくるのだろう。

 

そして、その目論見は多くの場合破たんする。

これは敗戦処理を任されたピッチャーみたいなもので、近寄られた時点でどうにかなるような状況にないことが多いのだが、そういうことが続くので「いい人」は「自分がいたから事態が破たんしたのではないか」と自分を責め始める。

そして「私なんかいたらダメなんじゃないか」と自分からその場を去ろうとしたりする。

これは、負け犬根性を育てる仕事の辞め方と同じ構図である。

挙句、余計に人を責めたりすることができなくなり、もっと「いい人」として振る舞おうとしたりする。

 

私はこういう「いい人」に言いたい。

「いい人」でいたいならそれでもいいけれど、負け犬にだけはならないでくれ、と。

なぜなら「負け犬にはならない」という意識が結局、自分を守ってくれることになるからだ。

 

私自身は決して「いい人」ではないが、見た目がおとなしそうなので、やはり負のオーラを持つ人を呼び寄せてしまうことが多かった。

でも「負け犬にはならない」と思うようになってから、後ろに武器でも隠し持っているように思われるのか「利用してやろう」という算段で近づいてくる人はいなくなった。

 

「2020年東京オリンピック・パラリンピック 未来へのレガシーにするための7つの提言」レポート

2015年11月14日に日本建築学会 建築会館ホールで行われた「2020年東京オリンピックパラリンピック 未来へのレガシーにするための7つの提言」に行ってきました。シンポジウムでは、ヒルサイドテラス東京体育館などを手がけ、新・国立競技場案に異議を唱えた建築家・槇文彦さんの特別講演を中心に、近い未来、東京はどう変わっていけば良いのか、さまざまな角度から提案がなされました。気になった言葉を中心に当日の様子をレポートします。

なお、録音等はしていないため、少し槇さんのお話した意図からそれた解釈をしている箇所もあるかもしれません。あくまで当日の話を受けての私の解釈という点、ご承知おきのうえお楽しみください。

 

カテドラルが見えない場所にある東京の街並み

これからの東京の話の前に、そもそも東京はどのように発展してきたのか、江戸時代の遊興地をプロットした地図を見せながら話す槇さん。地図にプロットされた名所はどれも武士のお屋敷街からは離れた場所にあることがわかります。この頃の遊興地といえば、飛鳥山公園や亀戸天神など寺社仏閣と結びついているところが多いもの。

 

こういった寺社仏閣は必ず奥まった場所にありました。神様は人が入れない領域から里宮、野宮、と人のいる場所に移動していくと考えられていたのです。私たちが街を歩いているとき、大通りから一本離れた場所にひょっこり神社や祠が顔を出すことがあります。銀座もそうした街の一つです。「カテドラルが見えない場所にあるのは東京の特色。散歩できる静かな小路のおだやかさを生かしていくべきでは」と槇さん。

 

都市の孤独を受け入れられるオープンスペースを

ジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』に描かれた人々の視線がすべて別々であることを説明する槇さん。「19世紀のフランスでは既に都市に住む者の孤独が始まっていた、ということです。」

そこで槇さんが手がけた表参道のスパイラルビルの話に。国道246号線を臨むスパイラルビルの階段の途中にはいくつも椅子が置いてあります。ぼーっとしたい時に訪れる、私の大好きな場所の一つです。この椅子は、開館当初は置かれていませんでしたが、途中から置かれるようになったそうです。「ビルのコンテンツが変わってもずっと変わらない場所を作りたかったから椅子を置いた」とのこと。

人々が窓から見ているのは、同じものなのでしょうか。それとも、場所が同じでもやはり別々のものを見ているのでしょうか。

 

オープンスペースの設計については、槇さんの手がけてこられた建築物からさまざまな例が挙げられました。

TDU(東京電機大学)の東京千住キャンパスではさまざまな工夫が凝らされています。カフェ前の軒下スペースはイタリアで行われているフリーマーケットのスペースを参考にして作られたものだそう。キャンパス内には幼稚園児がお散歩に来たり、お祭の御神輿がやってきたり、広く開かれている雰囲気。人の交流が盛んに起こっていることが見受けられます。

一方、代表作の一つであるヒルサイドテラスにも言及。こちらもオープンスペースが生かされていることを説明。自由に行き来できる共有スペースはセキュリティを考えれば絶対安全とは言えません。しかし、ヒルサイドテラスではこの共有スペースで警察沙汰になるようなことは今までありませんでした。これは日本の治安状況だからできる、とも。

 

ここで、フランスのテロ事件にも言及。

東京オリンピックに向けて作られたものが、その後、30年経ってどうなるかを私は見ることができません。こうしたオープンスペースをこれからも維持できるのか、というのは次のジェネレーションの課題でしょう。」

重く受け止めたい言葉です。これは建築がどうこう、という話でもないように思います。今の建築思想を維持しようとするのであれば、ソフトである人も努力が必要なのかもしれません。

 

都市の方向性をリードするオープンスペースの設計を

皇居を巨大なオープンスペースと考えると、それによって東京という都市が4つにゾーニングされていることがわかる、という話から、オープンスペースは巨大化すると都市の方向性をリードする力を持つ、という話へ。

街ありきで設計するのではない、東京オリンピックのような巨大なオープンスペースの設計を初めからできる機会があるのなら、あらかじめその効果を設計しておいてもいいのでは、というのが槇さんからの提案でした。あくまでそこに住まう人を生かすための黒子に徹した設計への思想が格好良すぎます。しびれます。

最後は、槇さんが手がけた9.11テロ跡地に建てられた「4WTC」のレポート映像で締め。「4WTCは脇役。主役はグラウンド・ゼロの公園のほう」と話す槇さん。めざしたのは光の彫刻なのだそう。全面鏡のようになっていて、周りの景色が映りこむビルは確かに光の彫刻と名乗るのにふさわしいもの。ビルのエントランスも鏡張りになっていて、背後にあるグラウンド・ゼロの緑が映ります。場所が違っていてもかつてのワールドトレードセンタービルとのつながりを感じることができるようになっているのです。そしてもしも、このビルがまたテロの標的となることがあったとすれば、そのとき、テロ犯が最後に見るのは暴力に身を任せた自分自身の姿。テロへの抗議の意志も感じられます。

 

槇文彦さんの講演の後はパネルディスカッションもあったのだけど、時間が押していたのか、概要をさらっと舐める程度の内容だったのでこちらは割愛。

元々好きな建築家でしたが、お話を聞いてますます好きになってしまいました。